2021年5月21日金曜日

36 切り火で受験生を送り出し

  幼い頃生家(奈良下市町)の蔵の中の階段に付け木(端に硫黄を塗った15cm四方位の板)が何枚か重ねておいてありました。なんのためかわからず、気になっていたのですが、後になって、マッチがなかった頃、切り火(火打ち石を鉄板に叩いて火花を出す)から火を移すための板とわかりました。勿論子供の頃はすでに家にマッチはありましたが。

 それ以来切り火に興味があって、平成の初め(1988年頃)、世田谷区に住んでいた頃、二子玉川の仏具店で「切り火」の道具(火打ち石と鉄板)を買いました。
その後、子供達が大学受験に家を出るとき、妻が切り火をして送り出しました。
鳶職などが家を出るとき厄払いに奥さんが主人の肩あたりで切り火をしていたのを時代劇で見て真似た、他愛のない厄除けですが。
そのおかげか、子供達は二人共無事に受験ができ、現役で国立大学に入学できました。

 今となっては使い方のわからない道具や材料が、ちょっと昔の家には色々あったと思います。北名古屋市の昭和日常博物館にも、懐かしい物が1.3万点以上あるようです。(令和3年5月21日現在)



2018年4月15日日曜日

35. 謎 野崎参りは誰が踊った?

 謎といっても他愛のない謎ですが、
成長してからもずっと気になていたことがいくつかありました。
たぶん誰でもそのような気になる謎があるのではないでしょうか。

 私の場合は、子供の頃近くの家であった子供会の踊りのことです。
当時、東海林太郎という有名な歌手が歌った「野崎参り」という
歌がありました。「野崎参りは屋形舟で参ろ・・・」の歌です。

 この歌に近所の女の子が振袖姿で日傘を持って踊ったのを記憶しています。その踊り子が誰だっか、ずっと思い出せませんでした。

 それから約50年後中学の同窓会で出会ったMちゃんに、あの踊りは誰だったのと聞くと、私よと言われて驚きかつ安心しました。時々思い出して気になっていたからです。

 もうひとつ、謎がありました。
それは、戦後まもなくの夏、叔母に連れられて、父の従姉妹のS子さんの伊丹の家に行ったときのことです。
その日はカンカン照りで、ガード(阪急の?)下に入ってほっとした位のを覚えていますが、同行した従姉妹達が誰だっかは長く気になっていました。

 それが約65年後の先日いとこ会で8人が集まった時、従姉妹の一人に聞くと、
はっきりは覚えていないが多分、Y子、S子、弟だっただろうとわかり、やっと安心しました。

2013年11月1日金曜日

34.あの星はお父ちゃん

 父がなくなったのは、5才の頃でしたので、おそらくなくなった昭和21年の
春か秋のことと思います。

 ある晴れた夜、母に連れられて歩いて5分ほどの銭湯に行く途中、
母が空を見上げて、ある星を指して「あの星はお父ちゃんやよ」と言いました。

 (家の風呂は昭和22年小学校へ入学後、薪を焚く五右衛門風呂ができました)

 そのあと母が何を言ったかは覚えていませんが、おそらく「見守ってくれて
いるんよ」のような意味の事を言ったのでしょうか。

 成人後、本やドラマなどで、登場人物が星を見上げて「あれはお父さんよ」とか
 「あれはお母さんよ」などと言うような場面を読んだり見たりしましたが、
なんとなく陳腐な言葉のような気がして、あまり心が動きませんでした。

 しかし、73才になった今、夜空にぽつんとひとつだけ星が見えるようなときは、
あの星は本当に父か父の魂かも知れないと思うようになりました。

 母が言ったのは、私を慰める目的だけでなく、母自身が自分に言い聞かせて、
寂しさを打ち払う言葉だったような気がします。
その母の気持を想像すると・・・・ (母は2002年12月なくなりました)


 直接関係はありませんが、人は木像や石像に魂を吹き込むように、
星にも月にも心を送り込むのでしょう。

 道端の石地蔵なども、それを作り、守ってきた人々の心が宿っているので、
決してただの石ではないのですね。

2011年11月6日日曜日

33. 海軍機が母の実家の上で旋回

 (1.生まれた頃のこと)

 成長してから母から聞いた話です。
母の実家は奈良・吉野郡にあり、梨園農家でした。
実家の近くの阿田峰高原に海軍の基地:大和第二飛行場がありました。

 戦争中の昭和17年か18年頃の話(私は幼児の頃)と思いますが、
飛行兵の訓練でしょう、小隊で山地の行軍などをしていたそうです。
あるとき若い飛行兵の小隊が休憩のため母の実家の山の家
(梨園のための家)に、立ち寄ったそうです。
祖母や母の妹達が、お茶やさつまいもなどで接待したのですが、
若い飛行兵の一人がY子おば(母の妹の一人)に惚れたそうです。

 どのような会話があったのかは聞いてませんが、のちに
その飛行兵が軍用機で練習中、実家の上空を旋回して、叔母に挨拶し、
叔母たちが手を振ったそうです。
山地を海軍機が飛ぶこと自体珍しいのに、母の家の上を旋回するのは、
見たかったです。

 その飛行兵は戦争が激しくなって、戦地に送られたようですが、
その後どうなったかは、聞いていません。
叔母はその後近くの町の酒屋さんに嫁ぎ2児を持ちました。

 戦後、当然飛行場は閉鎖されましたが、夏休みに叔父に連れられて
山道を歩き見に行ったことがあります。草原の記憶だけですが、
ジュラルミンや防弾ガラスの破片などを叔父に見せてもらいました。

 戦争は悲劇ですが、軍隊や関連部署が大移動するので、
おもわぬラブロマンスがあちこちで生まれ、大きく運命が変わった
人々も多かったでしょう。


追記:後日2012年(平成24年)9月7日葛城吟行の帰り、阿田峰の
   親戚(母方祖母の実家)の梨園を訪ねました。
   子供の頃遊んでもらったご主人に会い、飛行兵の話を聞きました。
   その飛行兵は終戦直前7月に阿田峰の飛行場を去ったので、
   無事に終戦を迎えたそうです。
   叔母が民放テレビの尋ね人の番組に応募して見つけてもらい、  
   再会したそうです。その話は放映されたのですが、ストーリーが
   脚色されていたので叔母は大変いやがったそうです。
   1996年(平成8年)11月頃のことと思いますが、私は東京に居たためか
   テレビ放送を見れなかったです。(10/28/2012)

32. 電車の上で阪神・淡路大震災

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラー(メルセデス・ベンツ)に勤務中の1995年1月7日、
あの阪神・淡路大震災が起こりました。
あれから16年の今年2011年3月11日、さらに大きな東北大震災が起こり、
いまだにふるさとへ戻れない人が大勢います。

 16年前の1月7日は月曜日で、単身赴任中の帰宅先(奈良)から、
東京の会社へ戻る日でした。
その日は9時半から経理部と情報システム部との会議が予定されていました。

 いつもは、家を朝5時10分位に出て、近鉄高の原駅発5時38分に乗ると
京都発6時15分の新幹線で、9時には六本木の会社に着いています。

 その日はいつものように近鉄京都線に乗って、しばらくすると新田辺
付近で、電車が停まりました。社内アナウンスでは「地震のためしばらく
停車します」とのことで、約2時間後やっと動き出しました。
それが、約25万軒全半壊、約6440人死亡の5時46分の阪神淡路大震災でした。

 10時頃着いたJR京都駅のアナウンスでは、神戸方面の地震のため、
東海道新幹線は名古屋以西停まっており、しばらくお待ち下さい
と言うばかりで、状況がわかりません。
たまたま持っていたラジオで、阪神地区で大地震があり、地域のすべての列車が
止まっているなどを知りました。

 約2時間京都駅で待ちましたが、京阪電車と新幹線名古屋以東は動いている
と知り、京阪電車で大阪に行き、淀屋橋からたタクシーで上六、上六から
近鉄大阪線で名古屋に、名古屋から14時20分の新幹線こだまで東京に戻りました。
日比谷線神谷町から会社へ着いたら夕方5時40分、勿論会議はとっくの昔に
終っていました。
 その後、震災の被害の大きさをニュースなどで知り、
東京へ無事に戻れただけでも幸運と思いました。
あわてていたためその時は、近鉄八木駅経由で名古屋という別のルートを
思いつきませんでした。
神戸の友人の家も半壊し、引越せざるをえなくなりました。

 このとき、固定電話がつながらない一方、携帯電話が比較的
つながりやすいことがわかり、会社では2月から全部門マネージャーに
携帯電話を持たせることになりました。
全フロアに保存食料や水を置くなど、このときの総務部の対応が大変早かった
ことを覚えています。

 この時以来自分でも、外出時には携帯電話やラジオなど通信手段を
持つようになりました。
災害の時、何がどうなっているのかわからない程不安なことはありません。
この時の経験から、種々の災害対策が全国的に実施されたので、
東北大震災でも、生かされたことが多々あったと思います。
(メデイアではあまり報告されていないようですが)

2011年10月19日水曜日

31. 国際会議で俳句会の説明

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラーに勤務のとき、毎年1、2回情報担当部長クラスの国際会議
に出席していましたが、私が部長職を退任することになった1998年5月の会議
(シュツットガルト近郊のホテルPark Gaggenau)では、会議のあと
短い送別会をしてくれました。
そのとき、司会の本社部長Ditchkofsky氏から、日本の俳句会(句会)のやり方を
説明してと要望がありました。

 仲間には以前私が下手な俳句をやっていることを話していたからでしょう。
またヨーロッパやアメリカの教科書にも日本の俳句が紹介されているようです。

そこで、私は、日本の俳句会はまったく民主的な会であると言って、
次のように句会のすすめかたを話しました。(もちろん英語で)

 まず、各出席者が自分の俳句を決められた数(5句とか10句)だけ、
一句ずつ紙の短冊(3X18センチくらい)に無記名で書き、世話人に提出します。

次に、世話人が集めた短冊を提出者が混じるよう10枚ずつ位にまとめます。

まとめた10枚くらいの短冊のセットと空白の清記用紙を、別の選句用紙と共に
各出席者にくばり、それぞれが、短冊から清記用紙に書き写します。

その清記用紙を世話人に集め、順の番号をつけてから、出席者に回覧します。
(人数が多いとコピーをとって小グループに分けて回覧します)

出席者は、回覧されてくる清記用紙の俳句から、自分が良い句と思う句を、
決められた数(5句とか10句)だけ選び、各自の選句用紙に記入します。

回覧と記入が終わったら世話人が、選句用紙を集め、
発表者(披講者)が、選者の名と選者が選んだ俳句を順次読み上げます。

俳句が読まれたらその都度、その句の作者が自分の名前を言います。

全部の選者(出席者)の選句が読み終わったら、世話人あるいは司会者が
司会して出席者が意見、質問などを出し合います。
指導者が出席されていれば、指導者から講評などをしてもらい、終了です。

 このように、句会は無記名でやるため、俳句に対しては、
まったく民主的で公正な評価がされると説明したら、うなづいて聞いて
くれました。
(ただし、俳句結社によって句会のやり方などが違うこともあります)

その時以来、ドイツには1999年に西暦2000年問題対策会議に出張しただけで、ドイツは遠くなりました。

2010年11月20日土曜日

30. 白い花が咲いていたのは?

 (6.高校時代)

  「白い花が咲いていた」で始まる岡本敦郎の歌「白い花の咲く頃」が
流行したのは、昭和25~26年頃(1950年頃)でしたが、その頃実家の近くに
疎開していた、S叔母がよく歌って教えてくれました。

 その後S叔母一家は大阪の美章園に引越しました。
そして私が昭和31年大阪の高校に入学すると、S叔母の家に下宿しました。
叔母といっても当時20才台だったのでS姉ちゃんと呼んでいました。

 S叔母の家は叔父(といっても祖父のいとこですが)と娘3人の4人家族でした。
田舎からいきなり大阪の高校だったので、ずいぶん田舎者に見えたのでしょう。
S叔母は、家で私に歩き方を指導してくれました。
頭の上に本を置き、それを落とさないようにまっすぐ歩くのです。
そのほかにも都会での生活を色々教えてくれ優しい人でした。
叔母の友人の家で大きなスピーカーとアンプで美空ひばりの歌を当時最新の
ハイファイの音で聞かせてもらったこともあります。

 その頃大阪松崎町に「アイリス洋裁店」を開き、オーダーメイドの洋服を
販売するビジネスを立ち上げ順調だったのに、癌におかされ私の大学卒業を
待たずに昭和38年1月に亡くなりました。

今でも、「白い花が咲いていた」の歌を聞くとやさしかった叔母を思い出します。
あの頃家の近くで咲いていた白い花は多分卯の花だったと想い、 

   白い花が咲いていたのは卯の花よ    

という俳句を、所属する俳句誌「運河」に投句したら茨木和生先生が
今年9月号に採って下さいました。
ほんのちょっぴりS叔母にお礼ができたのではと(勝手に)思っていますが、
先生は勿論そんなことはご存知ないはずです。

2010年4月27日火曜日

29. 日米同盟でドイツ本社に対抗? 

(a3.マネージャー時代)

 1988年頃から2007年頃までは、転職したダイムラーグループにとっても
変革の時代でした。
東西ドイツが統一された1990年以降、グローバル化する自動車産業に
遅れてはならないと拡張路線をとり、1998年アメリカのクライスラーを
吸収合併、2001年三菱自動車との資本提携、2007年クライスラー分離など
めまぐるしい変化に対応するためドイツ本社は情報システムについても、
各国の現地法人を含めて、種々の改革をすすめました。

 たとえば1994年頃は社内の情報化で、各国にいわゆるグループウエアと
いわれる通信/データベースシステムの導入をすすめました。
それ以前から、毎年1、2回は情報担当部長クラスの会議(20人くらい)
が開かれ、本社(海外)情報部門と各国との協調を進めました。
会議の場所も国際会議のためドイツ以外のヨーロッパ各国持ち回りの
ような状況でした。(フランス、イタリア、ベルギー、スペインなど)
しかし会議は当初ドイツ語でしたので、私とアメリカからのモロッチ氏は
議論できないので、本社チームは同時通訳の女性を採用してくれました。
つまり、モロッチ氏と私の間に同時通訳をおいて、すべての会話を
英語に通訳してくれるのです。
おかげで何が議論されているかは十分わかりました。

 グループウエアについては、日米はすでにノーツというソフトを導入し
社内掲示板などで活用していましたが、本社はそれをマイクロソフトの
グループウエアに統一したいと言いだしたのです。
当時ヨーロッパにくらべて日米は情報システムが進んでいたので、
モロッチ氏と私はこれに反対し本社の決定を変更させました。
他にも販売支援システム、データベースなどでは、
モロッチ氏と連携して本社の独断(?)に対抗しました。

 ただ、同盟の失敗もありました。
ローマで会議が開かれたとき、モロッチ氏と私は休日にトレビの泉などを
観光したのですが、一人のアメリカ人が近づいて近くに良い居酒屋があると
いうので、そこにいくと、大きな赤い扇子が飾ってあり異様な雰囲気でした。
モロッチ氏はすぐにそこが一種の暴力バーということに気がつき、
すぐに出ようということになり、一杯だけビールを飲んで店を出ました。
ビール代は二人で日本円で約5万円でした。

2009年12月12日土曜日

28. 東京を売ればアメリカが買えた?

(a3.マネージャー時代)

 1988年2月、縁あって約25年勤めた日本アイビーエムを退社し、
ダイムラー日本(当時メルセデス日本)株式会社に転職しました。
コンピュータのメーカーからユーザー企業へ転身でした。
情報システムの責任者として入社したので、その翌年5月27日から6月9日、
ドイツの本社で新任マネージャー研修を受けました。
人事部のYさん、財務部の新部長のTさん(当時次長)とおなじコース
でした。
各国の子会社からもマネージャーが出席していたので、それぞれが
自分の国を紹介する時間がありました。
我々日本のチームは、財務部次長のTさんが発表してくれましたが、
そのとき日本地図などを見せながら、日本は土地バブルで、
「東京を売ればアメリカ(土地)を買えます」というと、
皆びっくりしました。
誰かが「だれが東京を買うの?」と質問したので、「nobody」と答えると
皆大笑いでしたが。

 その後1989年末、日経平均株価は最高値38,915円をつけ、
1990年バブルが弾けて、大手銀行や証券会社が倒産し、
日本経済は失われた15年を歩みました。
それでも、私が定年退職する2000年ころまでは自動車販売もほぼ順調で、
入社後4~5年かけて会社で必要なコンピュータシステムを、
周囲の協力のおかげでなんとか完成できたのは幸運でした。

2009年5月19日火曜日

27. 新聞の俳句欄に投稿

(a2.子育て時代)

 上の子が5才位のころ俳句に興味を持ちはじめました。
その頃の俳句に

  はしゃぐ子をとらえて祭の法被着す
  障子の間成りて眺むる柘榴の実

などがあり、銀行勤務のかたわら俳句を楽しんでいた義父に添削して
もらったこともあります。

 1977年(昭和52年)その義父が入院し同年3月23日の朝日新聞の大和俳壇に

  雛の日に雛なし父の病み給ふ

が末席ながら入選・掲載されました。

 そのときの選者は右城暮石(うしろぼせき)先生で、その後先生主宰の
俳句結社「運河」に入会し、句会に出席するようになりました。
義父は1979年5月、右城先生は1995年8月なくなりましたが、
私が俳句の世界に入り、今でも下手ながら俳句を続けておられるのは
このお二人のおかげと感謝しています。

2009年5月14日木曜日

26. 出演料払ってカラオケ

(a3.マネージャー時代)

1978年(昭和53年)4月、ついに私は東京転勤の辞令を受けました。
当時からIBMは I'v Been Moved (移動させたれた)の略だという話が
あったほど、転勤は珍しい事ではなかったのです。
しかし私は関西が好きなのでかなり抵抗があり、家も母の離れを新築して
1年しか経っていなかったので、家族も大変でしたが、
13年間お付き合いいただいたご近所と別れて一家5人が東京に移転しました。

 東京での職場は営業所と違って本社教育部でした。
教育部はお客様のシステム担当者、管理者、経営者に対する講習と、
社員に対する研修が主な仕事で私は社員教育担当部でした。
4月に配属になったグループでは私の歓迎会を兼ねて、飯能市の川原での
ピクニックと野草採りをしてくれました。
今から考えれればのどかな時代でした。

 教育部のメンバーはいずれもカラオケが好きで、部員懇親会などでは必ず
カラオケを楽しむのですが、いつもマイクの奪い合いになるので、
あるときからは、出演者が1曲ごとに出演料500円を払うルールになりました。
机の真中に紙箱を置き、そこに500円!とか2曲分1000円!とか言ってお金を
入れるのです。
「天城越え」「さざんかの宿」「氷雨」などが人気曲でした。
 
 主任以上のSE(システムエンジニア)の技術教育で、
ニューヨークから講師を招いたり、自分も通信システムの講習を担当したり、
天城研修センターでお客様の経営者セミナーの手伝いをしたり、
充実した経験のできる職場でした。
1981年4月東京の営業所のシステム次長として転出するまで教育部にお世話に
なりました。
今はIBMの研修は会社の本業でないということで別会社組織として実施
されているようです。

2009年5月9日土曜日

25. FBIは早起き

(a1.SE時代)

1966年(昭和41年)ころ、日本IBMの大阪営業所は営業、SE合わせても100人
以下の比較的小さな営業所で、営業課は3つくらい、システム課は1つでした。
その頃、営業所の中で釣りの同好会ができ、その名前は「FBI」でした。
Fishing Boys of IBMのつもりで、何故か男性社員ばかりでした。
FBIのメンバーは約10人で、アメリカの連邦捜査局(FBI)と同様(?)皆早起きでした。
なにしろ、海釣りに行く時などは、和歌山の湯浅当たりの現地集合6時まででしたから。
湯浅で釣り船を出してもらい、アジやサバ、イサギなどを釣りました。
ある時などは、豊漁でクーラー一杯のときもあり、他の人のクーラーのすきまに
入れてもらいました。
吉野の渓谷でマス釣りを楽しんだりもしました。
しかし、営業所の規模が大きくなった1971年ころには、FBIは自然解消したように
思います。
特に1971年は、日本の高度成長の真っ只中で、日本IBMの新入社員は2000名
を越え、当時システム課長になったばかりの私も、東京の教育部の支援に
狩り出され、マーケテイング・コースのロールプレイで客先部長の役を
担当したりしました。
おかげで営業所の体制も強化され、客先も徐々に増えました。

2008年6月2日月曜日

24.フリーウエイで車がスピン

(a1.SE時代)

 1971年(昭和46年)9月から12月まで日本IBMの同僚のKさんとニューヨークに
滞在したときのことです。
当時(今もそうかもしれませんが)日本IBMでは、毎年5-6人のSE
(システムズエンジニア)をアメリカのIBMの教育研究期間である
SRI(Systems Research Institute)に、送っていました。
そこはSEの大学院のような所で、コンピュータに関するさまざまなテーマ
(言語、シミュレーション、通信システム、システムデザインなど)を研究し
生徒である全世界のSEに教える施設でした。
1回100人くらいのSEを集め、大学のように科目を自由選択させます。
当時はSRIはニューヨークの国連本部の前の5階建て位の小さなビルにあり、
私はレキシントンホテルからバスで通学(?)しました。
10月頃、Kさんと相談してナイヤガラの滝を一泊旅行で見に行くことになり、
大きなセダンのレンタカーを借りて、フリーウエイ(高速道路)のルート87
(87号線)からルート90のシラキュースに一泊しバッファローまで
車を走らせました。

その初日、たしかルート87を北上していたときと思いますが、
横を走りすぎる他の車のドライバーが窓から手を出し何かを合図します。
他の車も同じように合図するので、道の右端を走っていた運転手の私は
車を止めて点検しようとブレーキを掛けたとたん、タイヤがキーッと音を立てて
車が左にスピンし、4車線の真中で道路にほぼ直角に止まったのです。
後続の車がなかったので、我々は命拾いをしました。
当時日本の車はパワーブレーキでなかったので、ついブレーキに力を入れ過ぎた
のです。よく見ると左折のランプが点滅していました。
どこかで左折したとき、左折ランプを点滅させ消さないまま走っていたので、
他のドライバーが注意してくれたのです。
とにかく命拾いして、無事にきれいな公園のようなシラキュースに着き、
翌日カナダ側へ行きナイヤガラの滝を見物できました。
高速でスピンしたのはこれが最初で多分最後でしょうが、忘れられない事件です。
(蛇足ですが、ニューヨークの北のルート9号線は秋の紅葉がすばらしい道です)

2008年2月17日日曜日

23.爪を切る女の絵  

(2.幼稚園のころ)

 1950年(昭和25年)頃家の三階に昇る階段は、引き出しのついた
いわゆる箱階段で、左側にいくつかの取っ手があり、それらを引き出すと、
中に卒業証書やコタツなどが入っていたような気がします。
一つの引き出しには、2本の太刀と、仕込み杖が入っていました。
誰かが戦時中の金属供出運動にもかかわらず、隠しておいたのでしょう。
仕込み杖は長さ60-70センチ位なので、脇差かもしれませんが、
木の鞘(さや)を引くと、40センチ位の刀が出てきてびっくりしました。

その階段の上の正面の壁に50センチ位の丸い額が掛けてあり、
中央に四角い絵がありました。
その絵は長い髪の女が縁側にこちらを向いて座り、左足は縁側から
下ろし、右足を曲げて、鋏で爪を切っている絵でした。
三階へ昇るたびに、その絵がなにか幽霊が座っているように見え、
幼稚園から小学低学年の頃は怖くてしかたがありませんでした。

多分幼稚園の頃、母がお隣の同級生の女の子Mちゃんの家から、
鈴木三重吉の「赤い鳥」の絵本数冊を借りてくれ、三階の上がった所の
板の間で読んでいた記憶があります。
あの「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」の歌が載っていました。
三階に上がって左の部屋は、父が生きていた1945年頃までは父の
写真の暗室だったと母に聞きましたが、私の記憶にはなく、
物心がついた頃はその部屋は納戸(物置)になっていました。
上がって右は4畳の小さい部屋2つで、小学高学年から、
弟と私のそれぞれの勉強部屋にしてもらいました。
その頃にはもうその絵は怖くなくなっていました。
またいつの間にかその絵は外され、中学生位のころ、隣の
Mちゃんが三階に遊びに来た時はすでになかったと思います。

(蛇足:階段の反対側は10畳位の客間でしたが、のちに母から
 1938年2月22日の父と結婚式の場所だったと聞きました)

2008年1月19日土曜日

22.ボーイスカウトのデンダッド

(a2.子育て時代)

 1978年(昭和53年)4月から、東京転勤になり当時のIBMの教育部に勤務し、
調布市に転居しました。
子供たちはそれぞれ6才、3才(ともに男子)になっており、
上の子は飛田給小学校に入学し、2年からボーイスカウトに入りました。

 1965年頃から日本は高度成長期に入り、どこの会社や商店も社員は猛烈に
働いたので、ほとんどの父親は家庭のことは母親に任せっぱなしでした。
私も同じでしたが、子供の成長期に先輩後輩のいる団体生活を経験させるのが
大事だろうと妻と相談して、上の子が小学校2年になった年から、
ボーイスカウトに入団させました。

 ボーイスカウトは、小学校2年から5年まではカブスカウトといって、
いわゆるボーイ隊の下の幼年隊として活動することになっています。
その場合、母親はデンマザー、父親はデンダッドとして、ボーイスカウトの
行事に参加することになっていました。

 カブスカウト隊は、ほぼ毎週1日近くのボーイスカウト基地(といっても
高速道路の下の空き地でしたが)に集まり、団長やリーダー(シニア隊員)
のお兄さん、お姉さんの指導で、ハイキングやロープの結び方の訓練など、
自然でのサバイバルの訓練を受け、夏休みなどは、多摩川上流の養沢などに
キャンプにいきます。

 キャンプの時などはデンダッドの私も参加して、子供たちの活動の監視や、
植物の名前を教えたり、きも試しの脅かし役をしました。
真っ暗な山の中で、きも試しの子供が通るのを変な声を出しておどろかすのが
任務のひとつでした。

 上の子は仲間の子供達と比べてこわがらないとリーダーに誉められて
父親の私はひとり喜んでいました。
互いに離れた所で二人一組のキャンプも訓練としてありましたが、
たまたま夜の雨となり、なかなかきつかったようです。

 下の子は白糸台幼稚園から小学校に入り2年になると入団しました。
多分その頃(1982年)だったと思いますが、指導者講習会にも出席し、
救命処置の訓練(包帯、人工呼吸など)も受けました。

 1983年か1984年頃まで、私もボーイスカウトの活動に参加しました。
上の学年になるほど子供たちも忙しくなり、徐々に隊の活動から抜けるよう
になりましたが、自然の中で団体生活を経験したことは、
多分何らかの形で役に立っていると思います。

2008年1月14日月曜日

21. ローマの道をアルファロメオで

(a1.SE時代)

 
 1965年10月頃日本アイ・ビー・エムでの新入社員教育が終わりSE(システムズエンジニア)になりました。
SEという仕事はユーザーでのコンピュータのシステム作りを提案・支援する仕事です。
最初の担当客先は関西電力でした。世界初のオンラインによる燃料経済配分システムなど意欲的なコンピュータシステムに参画できたのは幸運でした。
さらに1969年5月ローマにあったIBMの公共事業センターにトレーニ-として3ヶ月アサインされローマに滞在しました。
これは公共事業のシステム化営業を支援する10数名の国際的な組織で、世界の電力・ガス事業などのコンピュータ化の状況・システムを、研究して、システム販売のための情報を各国に配布するのが主な使命でした。
英会話は約3年間会社の志望者教育(始業前1時間英会話などを選択受講できた)を受けてTOEICやっと600点を越えました。
メンバーはマネジャー/ワクテル(アメリカ)、ステファン・インゼルシュタイン(ポーランド出身南アフリカ)、ミギンド(デンマーク)、ヘルムート(ドイツ)、ユーミッド(トルコ)、モハン・ラオ(インド)、ジャン・ピエール(フランス)、デビッド・サルツハウス(イギリス)、ナンシー(アメリカ)、秘書/パレスキ(イタリア)と私で、一時サッシャーアジミ(イラン)が滞在しました。
当時このセンターはイラン国営電力へのコンピュータシステムの提案書を作成中でした。私はこのプロジェクトに参加し周波数制御などのページを担当しました。英会話は何しろTOEICやっと600点ですから会議で発言などは無理で、議論もやっと半分くらいしか理解できませんでした。しかしこの経験のおかげで「英語で口論できなければ仕事にならない」と後日英会話の勉強に挑戦できました。
ヨーロッパの人達は生活を楽しみながら仕事をしている感じで、ある金曜日などは夕方急にローマの海岸(アスティア)で泳ごうとミギンドが言い出し、皆で2台の車でアスティア海岸まで行き、すもうを取ったり、泳いだりして遊びました。
ある時は、ジャンピエールが私を彼のアルファロメオの助手席に乗せて、ローマの空港に近い郊外の細い道を時速180キロで走ってくれました。アルファロメオに乗ったのはこれが最初(で多分最後)でした。180キロになると向こうの道路がこちらへどんどん飛んでくる感じで少しこわかったのを覚えています。のちに、自動車会社に勤務し、メルセデスベンツ、BMW、ボルボなどに乗る機会がありましたがスポーツカーは初めてで、その速さと格好のよさに感動しました。7月に勤務が終り帰国後もサルツハウスやモハンラオとは数年間クリスマスカードのやりとりをしました。IBMは多国籍企業ですがこのような国際チームで日常の仕事をするのは比較的まれで大変幸運だったと思います。

20. 東京オリンピックのプログラマー

(9.新入社員時代)


  卒業後入社した会社は日本アイ・ビー・エムという会社でした。
昭和38年(1963)ころはアイビーエムという会社も世間では知られておらず、ICBM(大陸間弾道弾)の会社かと間違われたこともありました。
私は同期生約250人の一人としてうち10人ほどと同じ大阪営業所(あわせて約45名)に配属されました。

  当時のアイビーエムは(今でもそうかもしれませんが)社員教育に大変力をいれていた会社で、すべての新入社員は1年半の教育を受けました。
1年半の教育の最後はマーケティング・スクールといい、客先幹部へのコンピュータシステムの提案をロールプレー(教育部幹部が客先幹部に、生徒は営業担当に扮して)としてプレゼンテーションをおこない客先からOKをもらうまでは卒業させてもらえず、駄目な場合は配置転換という厳しいものでした。
教育部は東京新宿にあったので、1年半の間の約半分は東京出張(旅館に宿泊)でした。

  その年の12月15日ころ、教室から呼ばれて、その後お世話になったT本部長から「お前は今日からIBM東京オリンピック本部(全部で約300名)に所属し、プログラマー要員として勤務しなさい」 と言われびっくりしました。
東京オリンピックの競技結果報告を報道機関などに提供する情報システムはIBMが提供したのです。
翌年1月から大田区のアパート1室を借り、永田町にあるビルに全体で約60人くらいのシステム開発部門に勤務し、水泳、飛び込み、陸上競技、クレイ射撃などの競技の結果報告プログラムを作成しました。
設計はすでに先輩諸兄がやってくれていたので、我々プログラマー要員45名はただプログラムを作成するだけでしたが、本番同様のスケジュールでのシステム・リハーサル完了のころまでは大変でした。

  とにかくシステムが完成し、1964年10月10日のオリンピック開会式のテレビ画面を、日本青年館のコンピュータセンターで見たときは感激しました。閉会後わずか2時間で全競技記録が印刷・提供されました。
東京オリンピックの時期から新幹線が走り出し高速道路が整備され、日本の高度成長が始まったのです。

  蛇足ながら、当時のアパート暮らし(もちろん独身)の生活費を記録しておきます。
給料約3万円、家賃(6畳一間小さな炊事場つき)7000円、電気代250円(以下月あたり)、ガス代260円、水道代60円、トイレ(共同)代60円、新聞代450円、散髪代300円、銭湯代400円、クリーニング代400円などでした。
この夏は東京は水不足で水道が2、3日止まり、氷を買って解かして飲んだりしました。
無事にオリンピックが終わり、昭和39年12月本部は解散し、私は元の職場(大阪営業所)に戻り、中断した新入社員教育の残り(マーケティイングスクールなど)を翌年受けました。
開催前に代々木のプールや朝霞のクレイ射撃場などを見学できたのも良い思い出です。

 また、T本部長とは、オリンピック後 (私が大阪営業所へ戻ったので) 別の所属となりましたが、
1971年秋ごろ本部長がIBM本社のトップの補佐をされていたとき、たまたま私が教育受講で
ニューヨークに滞在中、ニューヨークのご自宅にお邪魔しました。
久しぶりのお話をさせていただき、スイートメロンなどをご馳走になりました。



追記: 2012年6月2日

  2012年5月19日(土) 東京・新宿区の日本青年館4階梅の間で
IBMの東京オリンピック本部・50周年記念会が開催され、椎名元会長はじめ約40人が出席、私も奈良から出席しました。
この場所は、48年前オリンピックコンピューターセンターがあった所です。

  T本部長はご病気で欠席されましたが、先輩・同期生らと約50年ぶりに会いました。
Tシステム課長から、当初18名のSEでスタートしたシステム開発プロジェクトが、1963年末、IBM本社からの勧告で50名ほどに急きょ増員されたこと、オフィスは当初赤坂離宮1階だったこと、リハーサルを2.5回やったこと, 後で読売新聞の記事で、コンピューター・システムは大成功で、IBMチームは金メダルに値すると評価された、などを聞きました。
コンピューターそのものは大会終了後、日本初の銀行オンラインシステムとして、当時の三井銀行に導入されました。

  約50年ぶりに会っても、先輩・同期生と去年まで同じ職場だったような感じで、
親しく話ができたのに驚きました。当時は若かったのでお互いの記憶も鮮明なのでしょう。

19. 合唱の演奏旅行 

(7.大学時代)
 

 中学の合唱団オーディションに落ちたうらみがあったので、大学に大学に入学するや、直ちに男声合唱団に入団しました。(オーディションなしだったので入団はOKでした)練習場所は、当時中ノ島にあった医学部の階段教室でした。
我々の合唱団はドイツの歌が中心でレパートリーは「青きドナウ」やシューベルト歌曲、ドイツ民謡などでした。日本の男声合唱曲もありました。
入団してまもなく7月ごろ、なぜか山梨県に演奏旅行がありました。
今まで、演奏旅行などに行ったことがないので、緊張しましたが楽しかったです。
たしか1日目は富士宮市公民館、2日目は甲府第二高校でした。
同期は10人くらいでしたが総勢60人位の男声合唱ですから、迫力はありました。
歌がうまかったかどうかはわかりませんが、声だけは大きかったでしょう。
私のパートは当時はバス(一番低い音域のパート)でした。
高校の廊下で女生徒達にすれ違うと礼をしてくれて、面映かった記憶があります。
地方の土地土地でのライブで歌うプロ歌手の生活の一端もこのようなものかななど想像できました。演奏会終了後本栖湖などで遊んだのも思い出です。
その後、民間テレビ局のスタジオで演奏し放映されたこともあります。
40年以上経って、退職後、その男声合唱団のOBの合唱団に再入団させてもらい、なつかしい仲間に再会でき、演奏会などに出演できたのもラッキーでした。
男声合唱で第一テナー、第二テナー、バリトン、バスの4パートがピシッと合って、ハーモニーが取れた時の気持ちのよさは格別です。
自分たちが楽器になり、ホールの空気が共鳴してくれるのです。

18. 盆、正月は家は旅館のよう 

(4.小・中学時代)
 
 戦前(1941年以前)は生めよ増やせよの時代でしたから、どの家も子沢山でした。
父は兄弟・姉妹8人(うち2人は若死しましたが)の長男、母は6人兄弟姉妹の長女でした。
結果として、私の従兄弟・従姉妹は20人でした。
父方の従姉妹たちは12人いましたが、そのうちの6人は、よくお正月やお盆に親たちと私の実家に帰りました。
親たち(叔母や叔父)も含めると、10人以上になりますが、昭和20年から30年頃までは、家族は8人だったので、合わせると、20人近くの人(子供達が多いのですが)が、お正月やお盆に家に来て(帰って)泊まりました。
叔母や母は食事の準備や、布団の準備で大忙しでしたが、我々子供たちは大喜びでした。
家のほとんどの部屋がまるで旅館のように布団だらけになるのですから。
どこの家も昔は長男の嫁や養子娘は、お正月などは、大変な思いだったでしょう。
特にお正月は、帰る人が多いし、コタツが足りないので、2組の布団を逆方向に敷いて、つまり頭が逆方向になるように敷いて、2組の布団の真中にコタツを置き、2人で一つのコタツをつかう「あとさし」と祖母たちが呼んでいた方法で狭い6畳に4人とか5人が寝るのです。子供たちは面白がって枕投げをして暴れたり、まるで学校の修学旅行でした。
小学1、2年のころだったと思いますが、同学年の従姉妹とお医者さんごっこもしましたが、その従姉妹も先年なくなりました。
大人になってからは、恥ずかしくてそんな思い出話を本人としたことはありませんが、心残りな気がします。

17. 消えた父の勲章 

(8.大学時代から40才くらいまで)


 夏休みで実家に帰ったとき、(多分大学の2,3年生のころ?)母が3階の納戸から、父の手旗を
出して見せてくれました。父は戦争中、軍属として輸送船に乗っていたようですが、船同士の連絡などには手旗信号を使っていたようです。手旗は大きさ40X50センチくらいで、60センチくらいの柄がついており、当然赤と白の2つの旗がありました。紙箱に入れてあったような気がします。
その時だったと思いますが、父の勲八等白色桐葉章と額に入れた賞状を見せてもらいました。
実家では額を掛ける場所がなかったのでしょう。掛けられた額を見ていませんが、後に結婚後、母と同居したとき、母の部屋(37才のころ高田の家に離れ座敷を建てました)にはちゃんと飾ってありました。
しかし、後に東京転勤になり、関西へ帰ってからも、母と同居でしたが掛けられた勲章の額をみていません。
平成時代にはいって、勲章に等級があるのはおかしいということで、議論になり、今は勲章に何等などと区別しなくなりました。父の功績が他の7等の人より劣っていたとは考えたくないし、なくなった人に「あなたはxx等です」と言うのも失礼ではないでしょうか。
そのような世間での議論や、戦死者などに勲章を与えること自体が、国民を戦争に狩り立てる手段や仕掛けになっているという思いが母にもあったのではないかと思います。
ニューヨークの同時テロの翌年2002年末、母が86才でなくなったとき、遺された物を整理しましたが、
その中には、勲章や額、手旗がなくなっていました。
私が知らない間に母がそれらを処分したのでしょう。
どのような気持で、母が父の勲章を捨てたのか聞きたかった気がします。