謎といっても他愛のない謎ですが、
成長してからもずっと気になていたことがいくつかありました。
たぶん誰でもそのような気になる謎があるのではないでしょうか。
私の場合は、子供の頃近くの家であった子供会の踊りのことです。
当時、東海林太郎という有名な歌手が歌った「野崎参り」という
歌がありました。「野崎参りは屋形舟で参ろ・・・」の歌です。
この歌に近所の女の子が振袖姿で日傘を持って踊ったのを記憶しています。その踊り子が誰だっか、ずっと思い出せませんでした。
それから約50年後中学の同窓会で出会ったMちゃんに、あの踊りは誰だったのと聞くと、私よと言われて驚きかつ安心しました。時々思い出して気になっていたからです。
もうひとつ、謎がありました。
それは、戦後まもなくの夏、叔母に連れられて、父の従姉妹のS子さんの伊丹の家に行ったときのことです。
その日はカンカン照りで、ガード(阪急の?)下に入ってほっとした位のを覚えていますが、同行した従姉妹達が誰だっかは長く気になっていました。
それが約65年後の先日いとこ会で8人が集まった時、従姉妹の一人に聞くと、
はっきりは覚えていないが多分、Y子、S子、弟だっただろうとわかり、やっと安心しました。
2018年4月15日日曜日
2008年1月14日月曜日
7. 蔵の2階は図書館
(7.小学校のころ)
家の裏には大きな2階の蔵がありました。この蔵は昔酒屋の酒蔵だったそうで、昭和の初めに家を買ったときについていたそうです。広さは1階、2階とも60畳分(30坪)あり、1階は土間で2階は板敷きでした。直径1メートルほどの大きな梁(はり)が2階の天井に見えていました。
家と蔵は泉水のある小さな庭でつながっており、入ると左側に唐臼(足踏み式の臼)がありその向こうに2階への階段がありました。
階段の下は米や麦の穀物置き場、右側は店の缶詰などの商品倉庫でした。奥には芋穴(地下に掘った芋置き場)があり、弟が母の言うことを聞かない時などはお仕置きとして、芋穴に閉じ込められました。
その先は裏の出入り口で、日中は常に開いていました。蔵の戸が厚くて重いので開け閉めが大変だったからでしょう。
蔵には大きな青大将(へび)が棲んでおり、蔵の中の卵をときどき飲みました。一度卵を飲んで長い胴体の一部が大きくふくれているのを見つけ、叔父が尻尾を持って振り回し殺しました。見つけたばかりに気の毒なことをしました。
2階に上がると、すぐ右には乾物などの在庫置き場で、奥には仕出し料理用の皿が何十種類も積まれていました。
中央や右の壁際にはいくつも長持ちやたんすなどの家具が置いてありました。その中に本箱もいくつかあり、叔父や叔母の小・中学校時代の教科書などが沢山ありました。
小学校の頃などはよく蔵の2階に登って探検をしました。
本箱の教科書の中で叔父の工業高校時代の数学の教科書があり、鶴亀算(鶴と亀の数と足の数からそれぞれ何匹か計算する方法)を連立方程式で解くページがあり、それから連立方程式を知り、随分楽に鶴亀算を解けるようになりました。
そのほかにも私には珍しい本があり、小学生の私にとっては蔵の2階は図書館でもありました。
(図はクリックすると拡大します)


家の裏には大きな2階の蔵がありました。この蔵は昔酒屋の酒蔵だったそうで、昭和の初めに家を買ったときについていたそうです。広さは1階、2階とも60畳分(30坪)あり、1階は土間で2階は板敷きでした。直径1メートルほどの大きな梁(はり)が2階の天井に見えていました。
家と蔵は泉水のある小さな庭でつながっており、入ると左側に唐臼(足踏み式の臼)がありその向こうに2階への階段がありました。
階段の下は米や麦の穀物置き場、右側は店の缶詰などの商品倉庫でした。奥には芋穴(地下に掘った芋置き場)があり、弟が母の言うことを聞かない時などはお仕置きとして、芋穴に閉じ込められました。
その先は裏の出入り口で、日中は常に開いていました。蔵の戸が厚くて重いので開け閉めが大変だったからでしょう。
蔵には大きな青大将(へび)が棲んでおり、蔵の中の卵をときどき飲みました。一度卵を飲んで長い胴体の一部が大きくふくれているのを見つけ、叔父が尻尾を持って振り回し殺しました。見つけたばかりに気の毒なことをしました。
2階に上がると、すぐ右には乾物などの在庫置き場で、奥には仕出し料理用の皿が何十種類も積まれていました。
中央や右の壁際にはいくつも長持ちやたんすなどの家具が置いてありました。その中に本箱もいくつかあり、叔父や叔母の小・中学校時代の教科書などが沢山ありました。
小学校の頃などはよく蔵の2階に登って探検をしました。
本箱の教科書の中で叔父の工業高校時代の数学の教科書があり、鶴亀算(鶴と亀の数と足の数からそれぞれ何匹か計算する方法)を連立方程式で解くページがあり、それから連立方程式を知り、随分楽に鶴亀算を解けるようになりました。
そのほかにも私には珍しい本があり、小学生の私にとっては蔵の2階は図書館でもありました。
(図はクリックすると拡大します)
6. 子取り婆
(6.小学校のころ)
子供の頃、悪いことをすると母や祖母から「子取り婆がくるよー」と、おどかされました。子取り婆は大きな袋を肩にかついで子供をさらい、袋に入れて遠くに売りにいくのだと聞かされました。
まるで北朝鮮の工作員の拉致(らち)のようなものです。
森鴎外の「山椒大夫」のように昔から子供の拉致・人身売買があり、その話が田舎の町にも届いていたのかもしれません。
家の畑のある杉ヤ谷という谷の奥に大きな池がありました。
その池は「山口の池」と呼んでいたので、たぶん同じ町の農家の池だったのでしょう。
小学校の1、2年の頃のある日、弟たちとその池に遊びに行きました。
池の奥の草ぼうぼうの対岸に探検にいくと、崖に直径1メートルほどの穴がありました。その中は暗くて奥が見えなかったですが、まず弟が穴をのぞいて怖くなったのでしょう。「子取り婆が来るぞー」と言って走りだしました。私もわけもなく怖くなり弟達と谷の道を走りました。途中で石ころにつまずいて右ひざに怪我をし血が流れてきて、痛いし怖いし、泣きながら家まで帰りました。
少し大きくなってからは、「山口の池」には時々鮒釣りに行きました。ミミズの餌でフナが釣れるのですが、たまに「いもり」が掛かるのです。いもりはトカゲのような形でおなかが真っ赤です。これが釣れるとはずすのが怖く泣きそうになりました。その頃から釣りは大好きで、裏の川でも「はいじゃこ(ハエ)」をよく釣りました。
子供の頃、悪いことをすると母や祖母から「子取り婆がくるよー」と、おどかされました。子取り婆は大きな袋を肩にかついで子供をさらい、袋に入れて遠くに売りにいくのだと聞かされました。
まるで北朝鮮の工作員の拉致(らち)のようなものです。
森鴎外の「山椒大夫」のように昔から子供の拉致・人身売買があり、その話が田舎の町にも届いていたのかもしれません。
家の畑のある杉ヤ谷という谷の奥に大きな池がありました。
その池は「山口の池」と呼んでいたので、たぶん同じ町の農家の池だったのでしょう。
小学校の1、2年の頃のある日、弟たちとその池に遊びに行きました。
池の奥の草ぼうぼうの対岸に探検にいくと、崖に直径1メートルほどの穴がありました。その中は暗くて奥が見えなかったですが、まず弟が穴をのぞいて怖くなったのでしょう。「子取り婆が来るぞー」と言って走りだしました。私もわけもなく怖くなり弟達と谷の道を走りました。途中で石ころにつまずいて右ひざに怪我をし血が流れてきて、痛いし怖いし、泣きながら家まで帰りました。
少し大きくなってからは、「山口の池」には時々鮒釣りに行きました。ミミズの餌でフナが釣れるのですが、たまに「いもり」が掛かるのです。いもりはトカゲのような形でおなかが真っ赤です。これが釣れるとはずすのが怖く泣きそうになりました。その頃から釣りは大好きで、裏の川でも「はいじゃこ(ハエ)」をよく釣りました。
4. 配給の行列
(4.小学校のころ)
戦時中から敗戦直後は食糧難だったので、各家庭が一定の物しか買えない配給制度でした。家は食料品店だったので、戦後配給のため米国占領軍の援助によるコーリヤンの袋がトラックから大量に降ろされたのを覚えています。配給の時間には、店の前のトラックが一台やっと通れる狭い道路に沿って、30~50人くらいの主婦が並びました。その行列のすき間から近所の2才の男の子が飛び出し、走ってきたトラックに引かれなくなりました。畑の食物も充分でなく、さつまいものツルや土手の「のびる」などを摘んできておかずの足しにしていました。配給の行列がなくなったのは昭和25年頃だったでしょう。
しかしラジオでは、「鐘の鳴る丘」の主題曲「とんがり帽子」や「リンゴの歌」が流れ、物資の乏しい中にも戦争中の圧迫感から解かれた開放感がありました。今のような格差社会とは異なり、みんな貧しいけれど、みんなに希望のある、青空の高い時代でした。小学校では、社会科の自由研究で、地方の産物などを調べて発表したようです。これは幼友達から聞いただけで、私は殆ど覚えていませんが。冬の夜は地区ごとの子供仲間で「火の用心」とさけびながら拍子木を打って歩き、夏は、金毘羅祭、八幡祭、天神祭、地蔵祭、盆踊り、花火大会など次々に来るイベントに参加できる平和な時代を過ごすことができました。
戦時中から敗戦直後は食糧難だったので、各家庭が一定の物しか買えない配給制度でした。家は食料品店だったので、戦後配給のため米国占領軍の援助によるコーリヤンの袋がトラックから大量に降ろされたのを覚えています。配給の時間には、店の前のトラックが一台やっと通れる狭い道路に沿って、30~50人くらいの主婦が並びました。その行列のすき間から近所の2才の男の子が飛び出し、走ってきたトラックに引かれなくなりました。畑の食物も充分でなく、さつまいものツルや土手の「のびる」などを摘んできておかずの足しにしていました。配給の行列がなくなったのは昭和25年頃だったでしょう。
しかしラジオでは、「鐘の鳴る丘」の主題曲「とんがり帽子」や「リンゴの歌」が流れ、物資の乏しい中にも戦争中の圧迫感から解かれた開放感がありました。今のような格差社会とは異なり、みんな貧しいけれど、みんなに希望のある、青空の高い時代でした。小学校では、社会科の自由研究で、地方の産物などを調べて発表したようです。これは幼友達から聞いただけで、私は殆ど覚えていませんが。冬の夜は地区ごとの子供仲間で「火の用心」とさけびながら拍子木を打って歩き、夏は、金毘羅祭、八幡祭、天神祭、地蔵祭、盆踊り、花火大会など次々に来るイベントに参加できる平和な時代を過ごすことができました。
3. 校舎の屋根の宝物
(3.小学校のころ)
小学校はその頃6組あり、何故かずっと1組でした。入学は昭和22年4月でした。
小学校の校舎はもちろん瓦ぶきで木造2階建て、大きな講堂がありました。
校門をはいると正面に五葉の松の木があり、右手に奉安殿(天皇陛下の御肖像を安置する建物)、玄関左手に薪を背負った二宮尊徳銅像がありました。
講堂の右手だったと思いますが、畳敷きの部屋があり、2年のときはそれが1組の教室でした。多分小学校は以前裁縫学校(旧小学5年相当)でもあったので裁縫などを教える部屋だったのでしょう。1年から3年は担任が女の先生で、特に1年の時の遠足は、自分の家の畑の近くの峰山という山に登ったのですが、途中で歩かなくなり先生におんぶしてもらったのを覚えています。
1年の秋の学芸会では浦島太郎役をさせてもらい衣装の脚半などは母が縫ってくれました。4年から6年は男の先生で、昔の戦争の話をよくしてくれました。
源平合戦や南朝・北朝の戦などがとくに面白く聞かせてもらいました。
友達2人と仲良し3人組を作っていたのですが、卒業の前に、校舎の屋根の鬼瓦の裏に宝物(珍しい貝か何かだったのでしょうが忘れました)を3人で隠しました。
勿論その校舎はその後、コンクリートに建て替えされたので我々の宝物は永久に失われました。人類にとって惜しいことです。
小学校はその頃6組あり、何故かずっと1組でした。入学は昭和22年4月でした。
小学校の校舎はもちろん瓦ぶきで木造2階建て、大きな講堂がありました。
校門をはいると正面に五葉の松の木があり、右手に奉安殿(天皇陛下の御肖像を安置する建物)、玄関左手に薪を背負った二宮尊徳銅像がありました。
講堂の右手だったと思いますが、畳敷きの部屋があり、2年のときはそれが1組の教室でした。多分小学校は以前裁縫学校(旧小学5年相当)でもあったので裁縫などを教える部屋だったのでしょう。1年から3年は担任が女の先生で、特に1年の時の遠足は、自分の家の畑の近くの峰山という山に登ったのですが、途中で歩かなくなり先生におんぶしてもらったのを覚えています。
1年の秋の学芸会では浦島太郎役をさせてもらい衣装の脚半などは母が縫ってくれました。4年から6年は男の先生で、昔の戦争の話をよくしてくれました。
源平合戦や南朝・北朝の戦などがとくに面白く聞かせてもらいました。
友達2人と仲良し3人組を作っていたのですが、卒業の前に、校舎の屋根の鬼瓦の裏に宝物(珍しい貝か何かだったのでしょうが忘れました)を3人で隠しました。
勿論その校舎はその後、コンクリートに建て替えされたので我々の宝物は永久に失われました。人類にとって惜しいことです。
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