(4.小・中学時代)
戦前(1941年以前)は生めよ増やせよの時代でしたから、どの家も子沢山でした。
父は兄弟・姉妹8人(うち2人は若死しましたが)の長男、母は6人兄弟姉妹の長女でした。
結果として、私の従兄弟・従姉妹は20人でした。
父方の従姉妹たちは12人いましたが、そのうちの6人は、よくお正月やお盆に親たちと私の実家に帰りました。
親たち(叔母や叔父)も含めると、10人以上になりますが、昭和20年から30年頃までは、家族は8人だったので、合わせると、20人近くの人(子供達が多いのですが)が、お正月やお盆に家に来て(帰って)泊まりました。
叔母や母は食事の準備や、布団の準備で大忙しでしたが、我々子供たちは大喜びでした。
家のほとんどの部屋がまるで旅館のように布団だらけになるのですから。
どこの家も昔は長男の嫁や養子娘は、お正月などは、大変な思いだったでしょう。
特にお正月は、帰る人が多いし、コタツが足りないので、2組の布団を逆方向に敷いて、つまり頭が逆方向になるように敷いて、2組の布団の真中にコタツを置き、2人で一つのコタツをつかう「あとさし」と祖母たちが呼んでいた方法で狭い6畳に4人とか5人が寝るのです。子供たちは面白がって枕投げをして暴れたり、まるで学校の修学旅行でした。
小学1、2年のころだったと思いますが、同学年の従姉妹とお医者さんごっこもしましたが、その従姉妹も先年なくなりました。
大人になってからは、恥ずかしくてそんな思い出話を本人としたことはありませんが、心残りな気がします。
2008年1月14日月曜日
5. きゃら(伽羅)の木登り
(4.小・中学時代)
母の里は家から4キロほど西の紀ノ川の近くでした。
2才の頃、弟が生まれたので、数週間私は母の実家に預けられたと母から聞きました。
勿論その頃の記憶はありません。
しかし小学校前からよく母と弟達と一緒に母の里へ遊びにいきました。勿論泊りがけです。
小学生と中学生の夏休みは決まって、1週間以上里に泊まりました。
母の里は梨園で普段の家(下の家)と別に梨園の山に家があり、
山の家では梨をたらふく食べたり、蝉を採ったりしました。
山の家の夕方は、蚊が多いので祖母が蚊くすべ(蚊遣り)のため松の小枝を折って
土間でくすべて(焚いて)くれました。
下の家では庭の木(大きな伽羅(きゃら)の木)に登ったり、川に泳ぎに行きます。
子供にとっては天国でした。
近所に母の妹の家や、祖父の妹の家があり、よく遊びに行きました。
駅から母の里まで歩いて20分ほどでしたが、母と一緒に歩く道は、当時は地道でしたが
わくわくする楽しい道でした。
母と一緒でないときは、小さい頃は実家の叔父(母の弟)が自転車で迎えに来てくれました。
小学校の頃、叔母(母の妹、当時独身)が結核のため実家で寝ており、短歌などを作っていました。そのそばで色々話をしました。
短歌にあったのでしょうが、当時東京上野の駅の付近や上野公園には大勢の孤児(みなしご)がおり、食べるものを得るのさえ大変だったとききました。多分彼らは私とほぼ同じ年頃と思いますが、その後彼らはどのような運命をたどったでしょう。
母も叔父も叔母も数年前なくなりましたが、上野の子供達と比べてはるかに幸せな子供の頃を過ごせたのは母の里のおかげでもあるでしょう。
蚊遣にと祖母焚きくれし松小枝 常朝 (運河2006年10月)
母の里は家から4キロほど西の紀ノ川の近くでした。
2才の頃、弟が生まれたので、数週間私は母の実家に預けられたと母から聞きました。
勿論その頃の記憶はありません。
しかし小学校前からよく母と弟達と一緒に母の里へ遊びにいきました。勿論泊りがけです。
小学生と中学生の夏休みは決まって、1週間以上里に泊まりました。
母の里は梨園で普段の家(下の家)と別に梨園の山に家があり、
山の家では梨をたらふく食べたり、蝉を採ったりしました。
山の家の夕方は、蚊が多いので祖母が蚊くすべ(蚊遣り)のため松の小枝を折って
土間でくすべて(焚いて)くれました。
下の家では庭の木(大きな伽羅(きゃら)の木)に登ったり、川に泳ぎに行きます。
子供にとっては天国でした。
近所に母の妹の家や、祖父の妹の家があり、よく遊びに行きました。
駅から母の里まで歩いて20分ほどでしたが、母と一緒に歩く道は、当時は地道でしたが
わくわくする楽しい道でした。
母と一緒でないときは、小さい頃は実家の叔父(母の弟)が自転車で迎えに来てくれました。
小学校の頃、叔母(母の妹、当時独身)が結核のため実家で寝ており、短歌などを作っていました。そのそばで色々話をしました。
短歌にあったのでしょうが、当時東京上野の駅の付近や上野公園には大勢の孤児(みなしご)がおり、食べるものを得るのさえ大変だったとききました。多分彼らは私とほぼ同じ年頃と思いますが、その後彼らはどのような運命をたどったでしょう。
母も叔父も叔母も数年前なくなりましたが、上野の子供達と比べてはるかに幸せな子供の頃を過ごせたのは母の里のおかげでもあるでしょう。
蚊遣にと祖母焚きくれし松小枝 常朝 (運河2006年10月)
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