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2021年5月21日金曜日

36 切り火で受験生を送り出し

  幼い頃生家(奈良下市町)の蔵の中の階段に付け木(端に硫黄を塗った15cm四方位の板)が何枚か重ねておいてありました。なんのためかわからず、気になっていたのですが、後になって、マッチがなかった頃、切り火(火打ち石を鉄板に叩いて火花を出す)から火を移すための板とわかりました。勿論子供の頃はすでに家にマッチはありましたが。

 それ以来切り火に興味があって、平成の初め(1988年頃)、世田谷区に住んでいた頃、二子玉川の仏具店で「切り火」の道具(火打ち石と鉄板)を買いました。
その後、子供達が大学受験に家を出るとき、妻が切り火をして送り出しました。
鳶職などが家を出るとき厄払いに奥さんが主人の肩あたりで切り火をしていたのを時代劇で見て真似た、他愛のない厄除けですが。
そのおかげか、子供達は二人共無事に受験ができ、現役で国立大学に入学できました。

 今となっては使い方のわからない道具や材料が、ちょっと昔の家には色々あったと思います。北名古屋市の昭和日常博物館にも、懐かしい物が1.3万点以上あるようです。(令和3年5月21日現在)



2009年5月19日火曜日

27. 新聞の俳句欄に投稿

(a2.子育て時代)

 上の子が5才位のころ俳句に興味を持ちはじめました。
その頃の俳句に

  はしゃぐ子をとらえて祭の法被着す
  障子の間成りて眺むる柘榴の実

などがあり、銀行勤務のかたわら俳句を楽しんでいた義父に添削して
もらったこともあります。

 1977年(昭和52年)その義父が入院し同年3月23日の朝日新聞の大和俳壇に

  雛の日に雛なし父の病み給ふ

が末席ながら入選・掲載されました。

 そのときの選者は右城暮石(うしろぼせき)先生で、その後先生主宰の
俳句結社「運河」に入会し、句会に出席するようになりました。
義父は1979年5月、右城先生は1995年8月なくなりましたが、
私が俳句の世界に入り、今でも下手ながら俳句を続けておられるのは
このお二人のおかげと感謝しています。

2008年1月19日土曜日

22.ボーイスカウトのデンダッド

(a2.子育て時代)

 1978年(昭和53年)4月から、東京転勤になり当時のIBMの教育部に勤務し、
調布市に転居しました。
子供たちはそれぞれ6才、3才(ともに男子)になっており、
上の子は飛田給小学校に入学し、2年からボーイスカウトに入りました。

 1965年頃から日本は高度成長期に入り、どこの会社や商店も社員は猛烈に
働いたので、ほとんどの父親は家庭のことは母親に任せっぱなしでした。
私も同じでしたが、子供の成長期に先輩後輩のいる団体生活を経験させるのが
大事だろうと妻と相談して、上の子が小学校2年になった年から、
ボーイスカウトに入団させました。

 ボーイスカウトは、小学校2年から5年まではカブスカウトといって、
いわゆるボーイ隊の下の幼年隊として活動することになっています。
その場合、母親はデンマザー、父親はデンダッドとして、ボーイスカウトの
行事に参加することになっていました。

 カブスカウト隊は、ほぼ毎週1日近くのボーイスカウト基地(といっても
高速道路の下の空き地でしたが)に集まり、団長やリーダー(シニア隊員)
のお兄さん、お姉さんの指導で、ハイキングやロープの結び方の訓練など、
自然でのサバイバルの訓練を受け、夏休みなどは、多摩川上流の養沢などに
キャンプにいきます。

 キャンプの時などはデンダッドの私も参加して、子供たちの活動の監視や、
植物の名前を教えたり、きも試しの脅かし役をしました。
真っ暗な山の中で、きも試しの子供が通るのを変な声を出しておどろかすのが
任務のひとつでした。

 上の子は仲間の子供達と比べてこわがらないとリーダーに誉められて
父親の私はひとり喜んでいました。
互いに離れた所で二人一組のキャンプも訓練としてありましたが、
たまたま夜の雨となり、なかなかきつかったようです。

 下の子は白糸台幼稚園から小学校に入り2年になると入団しました。
多分その頃(1982年)だったと思いますが、指導者講習会にも出席し、
救命処置の訓練(包帯、人工呼吸など)も受けました。

 1983年か1984年頃まで、私もボーイスカウトの活動に参加しました。
上の学年になるほど子供たちも忙しくなり、徐々に隊の活動から抜けるよう
になりましたが、自然の中で団体生活を経験したことは、
多分何らかの形で役に立っていると思います。