(7.大学時代)
中学の合唱団オーディションに落ちたうらみがあったので、大学に大学に入学するや、直ちに男声合唱団に入団しました。(オーディションなしだったので入団はOKでした)練習場所は、当時中ノ島にあった医学部の階段教室でした。
我々の合唱団はドイツの歌が中心でレパートリーは「青きドナウ」やシューベルト歌曲、ドイツ民謡などでした。日本の男声合唱曲もありました。
入団してまもなく7月ごろ、なぜか山梨県に演奏旅行がありました。
今まで、演奏旅行などに行ったことがないので、緊張しましたが楽しかったです。
たしか1日目は富士宮市公民館、2日目は甲府第二高校でした。
同期は10人くらいでしたが総勢60人位の男声合唱ですから、迫力はありました。
歌がうまかったかどうかはわかりませんが、声だけは大きかったでしょう。
私のパートは当時はバス(一番低い音域のパート)でした。
高校の廊下で女生徒達にすれ違うと礼をしてくれて、面映かった記憶があります。
地方の土地土地でのライブで歌うプロ歌手の生活の一端もこのようなものかななど想像できました。演奏会終了後本栖湖などで遊んだのも思い出です。
その後、民間テレビ局のスタジオで演奏し放映されたこともあります。
40年以上経って、退職後、その男声合唱団のOBの合唱団に再入団させてもらい、なつかしい仲間に再会でき、演奏会などに出演できたのもラッキーでした。
男声合唱で第一テナー、第二テナー、バリトン、バスの4パートがピシッと合って、ハーモニーが取れた時の気持ちのよさは格別です。
自分たちが楽器になり、ホールの空気が共鳴してくれるのです。
2008年1月14日月曜日
15. 本の中の場面:ラザロの復活
(7.大学時代)
大学の教養課程の時代は、割合時間がありました。
夏休みなどは、実家の近くでアルバイトの家庭教師をしたり、親戚のテレビを組み立てたりしました。
当時は真空管の白黒テレビで、日本橋でキットを買ってくれば、1日でテレビを組み立てることができました。
半田こてとドライバーだけで、当時4万円以上のテレビが2万円位で組み立てられ、1万円位も謝礼をもらい貯めたお小遣いで、アンプを組み立てたり、本を買いました。
なぜか学生時代は文学全集を読もうと決め、河出書房の世界文学全集や、新潮社の日本文学全集を順次買い、殆ど読みました。今から考えるとよく時間があったのだなあと思います。
堀辰雄の「風立ちぬ」、ヘルマンヘッセの「車輪の下」などが好きでした。
その中でドストエフスキーの「罪と罰」もありました。そのストーリーは殆ど忘れましたが、主人公のラスコーリニコフの恋人のソーニャが聖書の「ラザロの復活」のところを彼に読んで聞かせる場面だけが強く印象に残りました。
家は日蓮宗でしたが、当時の私はさほど宗教心がなく、悩んだ時聖書あるいはお経の本を読むなどは、とても考えられなかったからです。
その後、出張などでホテルに泊まったときに、よく部屋に置いてある聖書を、ぱらぱらとめくり、ラザロの復活の場面だけを読むことが何度かありました。
キリストは死者のラザロを復活させる奇跡を起したために、磔刑(はりつけ)にされたのでしょう。
その後、30才台で病気になったとき、同期の友が贈ってくれた「般若心経」の解説本を読んだりして、徐々に宗教に関心を持つようになりました。
だれでも病気や災難にあうとか、年をとるとかすれば、「人はどこから来てどこへ行くのか」とか、自分の生き方を考えるように(少しは哲学的にあるいは宗教的に)なるようです。
読んだ本の中身は殆ど忘れたので、読書自体はあまり役に立たなかったように思いますが、
少なくとも、外国や古き時代を想像できたり言葉や物の名前を覚える役には立ったでしょうね。
大学の教養課程の時代は、割合時間がありました。
夏休みなどは、実家の近くでアルバイトの家庭教師をしたり、親戚のテレビを組み立てたりしました。
当時は真空管の白黒テレビで、日本橋でキットを買ってくれば、1日でテレビを組み立てることができました。
半田こてとドライバーだけで、当時4万円以上のテレビが2万円位で組み立てられ、1万円位も謝礼をもらい貯めたお小遣いで、アンプを組み立てたり、本を買いました。
なぜか学生時代は文学全集を読もうと決め、河出書房の世界文学全集や、新潮社の日本文学全集を順次買い、殆ど読みました。今から考えるとよく時間があったのだなあと思います。
堀辰雄の「風立ちぬ」、ヘルマンヘッセの「車輪の下」などが好きでした。
その中でドストエフスキーの「罪と罰」もありました。そのストーリーは殆ど忘れましたが、主人公のラスコーリニコフの恋人のソーニャが聖書の「ラザロの復活」のところを彼に読んで聞かせる場面だけが強く印象に残りました。
家は日蓮宗でしたが、当時の私はさほど宗教心がなく、悩んだ時聖書あるいはお経の本を読むなどは、とても考えられなかったからです。
その後、出張などでホテルに泊まったときに、よく部屋に置いてある聖書を、ぱらぱらとめくり、ラザロの復活の場面だけを読むことが何度かありました。
キリストは死者のラザロを復活させる奇跡を起したために、磔刑(はりつけ)にされたのでしょう。
その後、30才台で病気になったとき、同期の友が贈ってくれた「般若心経」の解説本を読んだりして、徐々に宗教に関心を持つようになりました。
だれでも病気や災難にあうとか、年をとるとかすれば、「人はどこから来てどこへ行くのか」とか、自分の生き方を考えるように(少しは哲学的にあるいは宗教的に)なるようです。
読んだ本の中身は殆ど忘れたので、読書自体はあまり役に立たなかったように思いますが、
少なくとも、外国や古き時代を想像できたり言葉や物の名前を覚える役には立ったでしょうね。
14. カルメンと下宿先のご主人
(7.大学時代)
大学は大阪だったので、高校時代同様4年間下宿しました。
最初の教養課程の1年半は、校舎が阿倍野区にあったため、阿倍野区のおうちにお世話になりました。
そのお家の中学生の長男の家庭教師をさせてもらい下宿代は無料にしてもらいました。
昭和35年夏からは専門課程となり、校舎が豊中に変わったので池田市のおうちに下宿しました。
ここでも離れの良い部屋を使わせてもらいましたが、食事はほぼ自炊しました。
ご主人は有名な商社を退職された方で、当時70才くらいで病気で寝ておられました。
あるとき、ご主人がラジオでカルメンの放送があるので聞きたいと言われたので、私の大型のスピーカーボックスと自作のチューナー、アンプをご主人の部屋に運び込み、ラジオのカルメンを聞いてもらいました。
現職の頃はヨーロッパなどへ何度も出張されたようで、向こうで観劇されたオペラを思い出しておられただろうと思います。
そのようなこともあり、私はオペラにも興味を持つようなりましたが、のちに自分がローマでオペラを見られるとは想像もしていませんでした。
4年次からは寺田町のおうちにお世話になりました。ご主人は四天王寺のお坊様で落着いたよいご家庭でした。就職後も3ヶ月間は同じ部屋を使わせてもらい大事にしていただきました。
大学は大阪だったので、高校時代同様4年間下宿しました。
最初の教養課程の1年半は、校舎が阿倍野区にあったため、阿倍野区のおうちにお世話になりました。
そのお家の中学生の長男の家庭教師をさせてもらい下宿代は無料にしてもらいました。
昭和35年夏からは専門課程となり、校舎が豊中に変わったので池田市のおうちに下宿しました。
ここでも離れの良い部屋を使わせてもらいましたが、食事はほぼ自炊しました。
ご主人は有名な商社を退職された方で、当時70才くらいで病気で寝ておられました。
あるとき、ご主人がラジオでカルメンの放送があるので聞きたいと言われたので、私の大型のスピーカーボックスと自作のチューナー、アンプをご主人の部屋に運び込み、ラジオのカルメンを聞いてもらいました。
現職の頃はヨーロッパなどへ何度も出張されたようで、向こうで観劇されたオペラを思い出しておられただろうと思います。
そのようなこともあり、私はオペラにも興味を持つようなりましたが、のちに自分がローマでオペラを見られるとは想像もしていませんでした。
4年次からは寺田町のおうちにお世話になりました。ご主人は四天王寺のお坊様で落着いたよいご家庭でした。就職後も3ヶ月間は同じ部屋を使わせてもらい大事にしていただきました。
13. 黒板が決めた人生
(7.大学時代)
大学は高校の同級生2人と同じ大学の工学部の電子工学科へ進学しました。
当時、トランジスターが世に出て、従来の電力や通信と異なる情報処理分野の基礎として、電子工学が流行(?)しはじめ、電子工学科は新しい学科として人気があり、結果として入学がむずかしかったので、3人が挑戦したわけです。運良く3人とも合格し、技術畑へ進みました。
ただ当時の電子工学はトランジスターのための半導体などの技術研究が中心で、その応用分野である回路やコンピュータはまだこれからといった感じでした。
最初の1年半は教養課程で、英語や日本史、数学などを勉強しました。当時は日本史などは興味がなく、あまり勉強しませんでしたが、今思えばもっと関連の本などを読んでおけばよかったと思います。
私以上に歴史を知らない(深く考えない)政治家や官僚が多すぎる現状は、困ったものです。
また70年前と同じ過ちを繰り返すのではと心配です。
後半2年半の専門課程で、あるとき回路理論の授業で、M教授が、黒板に回路図を描かれました。
そしてこの回路はIBMの回路(たしか真空管による記憶回路だったと思います)だといわれたのです。私はびっくりしました。私は大学や国の研究機関の研究が最高レベルで、大学の授業で民間企業の技術が講義されるとは思っていなかったからです。大学の授業で紹介される技術を持つとはすごい会社だと思い、記憶に残りました。
その後、卒業研究は仲間6人でコンピュータの論理回路(計算をする回路)の勉強をし、今で言う電卓の回路をトランジスタで構成する研究をO教授や、他の先生方の指導のもと、何とか設計しました。
(設計と言っても物理的な回路図以前の論理設計ですが)
4年次の夏ごろ就職活動では日本の電器メーカーの工場見学などをしました。
当時(1963年、昭和38年頃)工学部は売り手市場で希望する企業へほぼ全員が就職できました。また40人のクラスのうち、約15人も大学院へ進学したのでなおさらです。担任の教授が各社最高2名などと就職者の人数を割り当てて調整をしてくれました。
結局私は国産メーカーでなく、授業に出てきたIBMの日本法人である日本アイ・ビー・エムに応募し合格しました。技術がすごいらしいと思ったこととこれからはコンピュータの時代だろうと思ったからです。いわば黒板の回路図が私の人生を決めました。
大学は高校の同級生2人と同じ大学の工学部の電子工学科へ進学しました。
当時、トランジスターが世に出て、従来の電力や通信と異なる情報処理分野の基礎として、電子工学が流行(?)しはじめ、電子工学科は新しい学科として人気があり、結果として入学がむずかしかったので、3人が挑戦したわけです。運良く3人とも合格し、技術畑へ進みました。
ただ当時の電子工学はトランジスターのための半導体などの技術研究が中心で、その応用分野である回路やコンピュータはまだこれからといった感じでした。
最初の1年半は教養課程で、英語や日本史、数学などを勉強しました。当時は日本史などは興味がなく、あまり勉強しませんでしたが、今思えばもっと関連の本などを読んでおけばよかったと思います。
私以上に歴史を知らない(深く考えない)政治家や官僚が多すぎる現状は、困ったものです。
また70年前と同じ過ちを繰り返すのではと心配です。
後半2年半の専門課程で、あるとき回路理論の授業で、M教授が、黒板に回路図を描かれました。
そしてこの回路はIBMの回路(たしか真空管による記憶回路だったと思います)だといわれたのです。私はびっくりしました。私は大学や国の研究機関の研究が最高レベルで、大学の授業で民間企業の技術が講義されるとは思っていなかったからです。大学の授業で紹介される技術を持つとはすごい会社だと思い、記憶に残りました。
その後、卒業研究は仲間6人でコンピュータの論理回路(計算をする回路)の勉強をし、今で言う電卓の回路をトランジスタで構成する研究をO教授や、他の先生方の指導のもと、何とか設計しました。
(設計と言っても物理的な回路図以前の論理設計ですが)
4年次の夏ごろ就職活動では日本の電器メーカーの工場見学などをしました。
当時(1963年、昭和38年頃)工学部は売り手市場で希望する企業へほぼ全員が就職できました。また40人のクラスのうち、約15人も大学院へ進学したのでなおさらです。担任の教授が各社最高2名などと就職者の人数を割り当てて調整をしてくれました。
結局私は国産メーカーでなく、授業に出てきたIBMの日本法人である日本アイ・ビー・エムに応募し合格しました。技術がすごいらしいと思ったこととこれからはコンピュータの時代だろうと思ったからです。いわば黒板の回路図が私の人生を決めました。
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