2009年5月19日火曜日

27. 新聞の俳句欄に投稿

(a2.子育て時代)

 上の子が5才位のころ俳句に興味を持ちはじめました。
その頃の俳句に

  はしゃぐ子をとらえて祭の法被着す
  障子の間成りて眺むる柘榴の実

などがあり、銀行勤務のかたわら俳句を楽しんでいた義父に添削して
もらったこともあります。

 1977年(昭和52年)その義父が入院し同年3月23日の朝日新聞の大和俳壇に

  雛の日に雛なし父の病み給ふ

が末席ながら入選・掲載されました。

 そのときの選者は右城暮石(うしろぼせき)先生で、その後先生主宰の
俳句結社「運河」に入会し、句会に出席するようになりました。
義父は1979年5月、右城先生は1995年8月なくなりましたが、
私が俳句の世界に入り、今でも下手ながら俳句を続けておられるのは
このお二人のおかげと感謝しています。

2009年5月14日木曜日

26. 出演料払ってカラオケ

(a3.マネージャー時代)

1978年(昭和53年)4月、ついに私は東京転勤の辞令を受けました。
当時からIBMは I'v Been Moved (移動させたれた)の略だという話が
あったほど、転勤は珍しい事ではなかったのです。
しかし私は関西が好きなのでかなり抵抗があり、家も母の離れを新築して
1年しか経っていなかったので、家族も大変でしたが、
13年間お付き合いいただいたご近所と別れて一家5人が東京に移転しました。

 東京での職場は営業所と違って本社教育部でした。
教育部はお客様のシステム担当者、管理者、経営者に対する講習と、
社員に対する研修が主な仕事で私は社員教育担当部でした。
4月に配属になったグループでは私の歓迎会を兼ねて、飯能市の川原での
ピクニックと野草採りをしてくれました。
今から考えれればのどかな時代でした。

 教育部のメンバーはいずれもカラオケが好きで、部員懇親会などでは必ず
カラオケを楽しむのですが、いつもマイクの奪い合いになるので、
あるときからは、出演者が1曲ごとに出演料500円を払うルールになりました。
机の真中に紙箱を置き、そこに500円!とか2曲分1000円!とか言ってお金を
入れるのです。
「天城越え」「さざんかの宿」「氷雨」などが人気曲でした。
 
 主任以上のSE(システムエンジニア)の技術教育で、
ニューヨークから講師を招いたり、自分も通信システムの講習を担当したり、
天城研修センターでお客様の経営者セミナーの手伝いをしたり、
充実した経験のできる職場でした。
1981年4月東京の営業所のシステム次長として転出するまで教育部にお世話に
なりました。
今はIBMの研修は会社の本業でないということで別会社組織として実施
されているようです。

2009年5月9日土曜日

25. FBIは早起き

(a1.SE時代)

1966年(昭和41年)ころ、日本IBMの大阪営業所は営業、SE合わせても100人
以下の比較的小さな営業所で、営業課は3つくらい、システム課は1つでした。
その頃、営業所の中で釣りの同好会ができ、その名前は「FBI」でした。
Fishing Boys of IBMのつもりで、何故か男性社員ばかりでした。
FBIのメンバーは約10人で、アメリカの連邦捜査局(FBI)と同様(?)皆早起きでした。
なにしろ、海釣りに行く時などは、和歌山の湯浅当たりの現地集合6時まででしたから。
湯浅で釣り船を出してもらい、アジやサバ、イサギなどを釣りました。
ある時などは、豊漁でクーラー一杯のときもあり、他の人のクーラーのすきまに
入れてもらいました。
吉野の渓谷でマス釣りを楽しんだりもしました。
しかし、営業所の規模が大きくなった1971年ころには、FBIは自然解消したように
思います。
特に1971年は、日本の高度成長の真っ只中で、日本IBMの新入社員は2000名
を越え、当時システム課長になったばかりの私も、東京の教育部の支援に
狩り出され、マーケテイング・コースのロールプレイで客先部長の役を
担当したりしました。
おかげで営業所の体制も強化され、客先も徐々に増えました。

2008年6月2日月曜日

24.フリーウエイで車がスピン

(a1.SE時代)

 1971年(昭和46年)9月から12月まで日本IBMの同僚のKさんとニューヨークに
滞在したときのことです。
当時(今もそうかもしれませんが)日本IBMでは、毎年5-6人のSE
(システムズエンジニア)をアメリカのIBMの教育研究期間である
SRI(Systems Research Institute)に、送っていました。
そこはSEの大学院のような所で、コンピュータに関するさまざまなテーマ
(言語、シミュレーション、通信システム、システムデザインなど)を研究し
生徒である全世界のSEに教える施設でした。
1回100人くらいのSEを集め、大学のように科目を自由選択させます。
当時はSRIはニューヨークの国連本部の前の5階建て位の小さなビルにあり、
私はレキシントンホテルからバスで通学(?)しました。
10月頃、Kさんと相談してナイヤガラの滝を一泊旅行で見に行くことになり、
大きなセダンのレンタカーを借りて、フリーウエイ(高速道路)のルート87
(87号線)からルート90のシラキュースに一泊しバッファローまで
車を走らせました。

その初日、たしかルート87を北上していたときと思いますが、
横を走りすぎる他の車のドライバーが窓から手を出し何かを合図します。
他の車も同じように合図するので、道の右端を走っていた運転手の私は
車を止めて点検しようとブレーキを掛けたとたん、タイヤがキーッと音を立てて
車が左にスピンし、4車線の真中で道路にほぼ直角に止まったのです。
後続の車がなかったので、我々は命拾いをしました。
当時日本の車はパワーブレーキでなかったので、ついブレーキに力を入れ過ぎた
のです。よく見ると左折のランプが点滅していました。
どこかで左折したとき、左折ランプを点滅させ消さないまま走っていたので、
他のドライバーが注意してくれたのです。
とにかく命拾いして、無事にきれいな公園のようなシラキュースに着き、
翌日カナダ側へ行きナイヤガラの滝を見物できました。
高速でスピンしたのはこれが最初で多分最後でしょうが、忘れられない事件です。
(蛇足ですが、ニューヨークの北のルート9号線は秋の紅葉がすばらしい道です)

2008年2月17日日曜日

23.爪を切る女の絵  

(2.幼稚園のころ)

 1950年(昭和25年)頃家の三階に昇る階段は、引き出しのついた
いわゆる箱階段で、左側にいくつかの取っ手があり、それらを引き出すと、
中に卒業証書やコタツなどが入っていたような気がします。
一つの引き出しには、2本の太刀と、仕込み杖が入っていました。
誰かが戦時中の金属供出運動にもかかわらず、隠しておいたのでしょう。
仕込み杖は長さ60-70センチ位なので、脇差かもしれませんが、
木の鞘(さや)を引くと、40センチ位の刀が出てきてびっくりしました。

その階段の上の正面の壁に50センチ位の丸い額が掛けてあり、
中央に四角い絵がありました。
その絵は長い髪の女が縁側にこちらを向いて座り、左足は縁側から
下ろし、右足を曲げて、鋏で爪を切っている絵でした。
三階へ昇るたびに、その絵がなにか幽霊が座っているように見え、
幼稚園から小学低学年の頃は怖くてしかたがありませんでした。

多分幼稚園の頃、母がお隣の同級生の女の子Mちゃんの家から、
鈴木三重吉の「赤い鳥」の絵本数冊を借りてくれ、三階の上がった所の
板の間で読んでいた記憶があります。
あの「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」の歌が載っていました。
三階に上がって左の部屋は、父が生きていた1945年頃までは父の
写真の暗室だったと母に聞きましたが、私の記憶にはなく、
物心がついた頃はその部屋は納戸(物置)になっていました。
上がって右は4畳の小さい部屋2つで、小学高学年から、
弟と私のそれぞれの勉強部屋にしてもらいました。
その頃にはもうその絵は怖くなくなっていました。
またいつの間にかその絵は外され、中学生位のころ、隣の
Mちゃんが三階に遊びに来た時はすでになかったと思います。

(蛇足:階段の反対側は10畳位の客間でしたが、のちに母から
 1938年2月22日の父と結婚式の場所だったと聞きました)

2008年1月19日土曜日

22.ボーイスカウトのデンダッド

(a2.子育て時代)

 1978年(昭和53年)4月から、東京転勤になり当時のIBMの教育部に勤務し、
調布市に転居しました。
子供たちはそれぞれ6才、3才(ともに男子)になっており、
上の子は飛田給小学校に入学し、2年からボーイスカウトに入りました。

 1965年頃から日本は高度成長期に入り、どこの会社や商店も社員は猛烈に
働いたので、ほとんどの父親は家庭のことは母親に任せっぱなしでした。
私も同じでしたが、子供の成長期に先輩後輩のいる団体生活を経験させるのが
大事だろうと妻と相談して、上の子が小学校2年になった年から、
ボーイスカウトに入団させました。

 ボーイスカウトは、小学校2年から5年まではカブスカウトといって、
いわゆるボーイ隊の下の幼年隊として活動することになっています。
その場合、母親はデンマザー、父親はデンダッドとして、ボーイスカウトの
行事に参加することになっていました。

 カブスカウト隊は、ほぼ毎週1日近くのボーイスカウト基地(といっても
高速道路の下の空き地でしたが)に集まり、団長やリーダー(シニア隊員)
のお兄さん、お姉さんの指導で、ハイキングやロープの結び方の訓練など、
自然でのサバイバルの訓練を受け、夏休みなどは、多摩川上流の養沢などに
キャンプにいきます。

 キャンプの時などはデンダッドの私も参加して、子供たちの活動の監視や、
植物の名前を教えたり、きも試しの脅かし役をしました。
真っ暗な山の中で、きも試しの子供が通るのを変な声を出しておどろかすのが
任務のひとつでした。

 上の子は仲間の子供達と比べてこわがらないとリーダーに誉められて
父親の私はひとり喜んでいました。
互いに離れた所で二人一組のキャンプも訓練としてありましたが、
たまたま夜の雨となり、なかなかきつかったようです。

 下の子は白糸台幼稚園から小学校に入り2年になると入団しました。
多分その頃(1982年)だったと思いますが、指導者講習会にも出席し、
救命処置の訓練(包帯、人工呼吸など)も受けました。

 1983年か1984年頃まで、私もボーイスカウトの活動に参加しました。
上の学年になるほど子供たちも忙しくなり、徐々に隊の活動から抜けるよう
になりましたが、自然の中で団体生活を経験したことは、
多分何らかの形で役に立っていると思います。

2008年1月14日月曜日

21. ローマの道をアルファロメオで

(a1.SE時代)

 
 1965年10月頃日本アイ・ビー・エムでの新入社員教育が終わりSE(システムズエンジニア)になりました。
SEという仕事はユーザーでのコンピュータのシステム作りを提案・支援する仕事です。
最初の担当客先は関西電力でした。世界初のオンラインによる燃料経済配分システムなど意欲的なコンピュータシステムに参画できたのは幸運でした。
さらに1969年5月ローマにあったIBMの公共事業センターにトレーニ-として3ヶ月アサインされローマに滞在しました。
これは公共事業のシステム化営業を支援する10数名の国際的な組織で、世界の電力・ガス事業などのコンピュータ化の状況・システムを、研究して、システム販売のための情報を各国に配布するのが主な使命でした。
英会話は約3年間会社の志望者教育(始業前1時間英会話などを選択受講できた)を受けてTOEICやっと600点を越えました。
メンバーはマネジャー/ワクテル(アメリカ)、ステファン・インゼルシュタイン(ポーランド出身南アフリカ)、ミギンド(デンマーク)、ヘルムート(ドイツ)、ユーミッド(トルコ)、モハン・ラオ(インド)、ジャン・ピエール(フランス)、デビッド・サルツハウス(イギリス)、ナンシー(アメリカ)、秘書/パレスキ(イタリア)と私で、一時サッシャーアジミ(イラン)が滞在しました。
当時このセンターはイラン国営電力へのコンピュータシステムの提案書を作成中でした。私はこのプロジェクトに参加し周波数制御などのページを担当しました。英会話は何しろTOEICやっと600点ですから会議で発言などは無理で、議論もやっと半分くらいしか理解できませんでした。しかしこの経験のおかげで「英語で口論できなければ仕事にならない」と後日英会話の勉強に挑戦できました。
ヨーロッパの人達は生活を楽しみながら仕事をしている感じで、ある金曜日などは夕方急にローマの海岸(アスティア)で泳ごうとミギンドが言い出し、皆で2台の車でアスティア海岸まで行き、すもうを取ったり、泳いだりして遊びました。
ある時は、ジャンピエールが私を彼のアルファロメオの助手席に乗せて、ローマの空港に近い郊外の細い道を時速180キロで走ってくれました。アルファロメオに乗ったのはこれが最初(で多分最後)でした。180キロになると向こうの道路がこちらへどんどん飛んでくる感じで少しこわかったのを覚えています。のちに、自動車会社に勤務し、メルセデスベンツ、BMW、ボルボなどに乗る機会がありましたがスポーツカーは初めてで、その速さと格好のよさに感動しました。7月に勤務が終り帰国後もサルツハウスやモハンラオとは数年間クリスマスカードのやりとりをしました。IBMは多国籍企業ですがこのような国際チームで日常の仕事をするのは比較的まれで大変幸運だったと思います。