2010年11月20日土曜日

30. 白い花が咲いていたのは?

 (6.高校時代)

  「白い花が咲いていた」で始まる岡本敦郎の歌「白い花の咲く頃」が
流行したのは、昭和25~26年頃(1950年頃)でしたが、その頃実家の近くに
疎開していた、S叔母がよく歌って教えてくれました。

 その後S叔母一家は大阪の美章園に引越しました。
そして私が昭和31年大阪の高校に入学すると、S叔母の家に下宿しました。
叔母といっても当時20才台だったのでS姉ちゃんと呼んでいました。

 S叔母の家は叔父(といっても祖父のいとこですが)と娘3人の4人家族でした。
田舎からいきなり大阪の高校だったので、ずいぶん田舎者に見えたのでしょう。
S叔母は、家で私に歩き方を指導してくれました。
頭の上に本を置き、それを落とさないようにまっすぐ歩くのです。
そのほかにも都会での生活を色々教えてくれ優しい人でした。
叔母の友人の家で大きなスピーカーとアンプで美空ひばりの歌を当時最新の
ハイファイの音で聞かせてもらったこともあります。

 その頃大阪松崎町に「アイリス洋裁店」を開き、オーダーメイドの洋服を
販売するビジネスを立ち上げ順調だったのに、癌におかされ私の大学卒業を
待たずに昭和38年1月に亡くなりました。

今でも、「白い花が咲いていた」の歌を聞くとやさしかった叔母を思い出します。
あの頃家の近くで咲いていた白い花は多分卯の花だったと想い、 

   白い花が咲いていたのは卯の花よ    

という俳句を、所属する俳句誌「運河」に投句したら茨木和生先生が
今年9月号に採って下さいました。
ほんのちょっぴりS叔母にお礼ができたのではと(勝手に)思っていますが、
先生は勿論そんなことはご存知ないはずです。

2010年4月27日火曜日

29. 日米同盟でドイツ本社に対抗? 

(a3.マネージャー時代)

 1988年頃から2007年頃までは、転職したダイムラーグループにとっても
変革の時代でした。
東西ドイツが統一された1990年以降、グローバル化する自動車産業に
遅れてはならないと拡張路線をとり、1998年アメリカのクライスラーを
吸収合併、2001年三菱自動車との資本提携、2007年クライスラー分離など
めまぐるしい変化に対応するためドイツ本社は情報システムについても、
各国の現地法人を含めて、種々の改革をすすめました。

 たとえば1994年頃は社内の情報化で、各国にいわゆるグループウエアと
いわれる通信/データベースシステムの導入をすすめました。
それ以前から、毎年1、2回は情報担当部長クラスの会議(20人くらい)
が開かれ、本社(海外)情報部門と各国との協調を進めました。
会議の場所も国際会議のためドイツ以外のヨーロッパ各国持ち回りの
ような状況でした。(フランス、イタリア、ベルギー、スペインなど)
しかし会議は当初ドイツ語でしたので、私とアメリカからのモロッチ氏は
議論できないので、本社チームは同時通訳の女性を採用してくれました。
つまり、モロッチ氏と私の間に同時通訳をおいて、すべての会話を
英語に通訳してくれるのです。
おかげで何が議論されているかは十分わかりました。

 グループウエアについては、日米はすでにノーツというソフトを導入し
社内掲示板などで活用していましたが、本社はそれをマイクロソフトの
グループウエアに統一したいと言いだしたのです。
当時ヨーロッパにくらべて日米は情報システムが進んでいたので、
モロッチ氏と私はこれに反対し本社の決定を変更させました。
他にも販売支援システム、データベースなどでは、
モロッチ氏と連携して本社の独断(?)に対抗しました。

 ただ、同盟の失敗もありました。
ローマで会議が開かれたとき、モロッチ氏と私は休日にトレビの泉などを
観光したのですが、一人のアメリカ人が近づいて近くに良い居酒屋があると
いうので、そこにいくと、大きな赤い扇子が飾ってあり異様な雰囲気でした。
モロッチ氏はすぐにそこが一種の暴力バーということに気がつき、
すぐに出ようということになり、一杯だけビールを飲んで店を出ました。
ビール代は二人で日本円で約5万円でした。