2011年11月6日日曜日

33. 海軍機が母の実家の上で旋回

 (1.生まれた頃のこと)

 成長してから母から聞いた話です。
母の実家は奈良・吉野郡にあり、梨園農家でした。
実家の近くの阿田峰高原に海軍の基地:大和第二飛行場がありました。

 戦争中の昭和17年か18年頃の話(私は幼児の頃)と思いますが、
飛行兵の訓練でしょう、小隊で山地の行軍などをしていたそうです。
あるとき若い飛行兵の小隊が休憩のため母の実家の山の家
(梨園のための家)に、立ち寄ったそうです。
祖母や母の妹達が、お茶やさつまいもなどで接待したのですが、
若い飛行兵の一人がY子おば(母の妹の一人)に惚れたそうです。

 どのような会話があったのかは聞いてませんが、のちに
その飛行兵が軍用機で練習中、実家の上空を旋回して、叔母に挨拶し、
叔母たちが手を振ったそうです。
山地を海軍機が飛ぶこと自体珍しいのに、母の家の上を旋回するのは、
見たかったです。

 その飛行兵は戦争が激しくなって、戦地に送られたようですが、
その後どうなったかは、聞いていません。
叔母はその後近くの町の酒屋さんに嫁ぎ2児を持ちました。

 戦後、当然飛行場は閉鎖されましたが、夏休みに叔父に連れられて
山道を歩き見に行ったことがあります。草原の記憶だけですが、
ジュラルミンや防弾ガラスの破片などを叔父に見せてもらいました。

 戦争は悲劇ですが、軍隊や関連部署が大移動するので、
おもわぬラブロマンスがあちこちで生まれ、大きく運命が変わった
人々も多かったでしょう。


追記:後日2012年(平成24年)9月7日葛城吟行の帰り、阿田峰の
   親戚(母方祖母の実家)の梨園を訪ねました。
   子供の頃遊んでもらったご主人に会い、飛行兵の話を聞きました。
   その飛行兵は終戦直前7月に阿田峰の飛行場を去ったので、
   無事に終戦を迎えたそうです。
   叔母が民放テレビの尋ね人の番組に応募して見つけてもらい、  
   再会したそうです。その話は放映されたのですが、ストーリーが
   脚色されていたので叔母は大変いやがったそうです。
   1996年(平成8年)11月頃のことと思いますが、私は東京に居たためか
   テレビ放送を見れなかったです。(10/28/2012)

32. 電車の上で阪神・淡路大震災

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラー(メルセデス・ベンツ)に勤務中の1995年1月7日、
あの阪神・淡路大震災が起こりました。
あれから16年の今年2011年3月11日、さらに大きな東北大震災が起こり、
いまだにふるさとへ戻れない人が大勢います。

 16年前の1月7日は月曜日で、単身赴任中の帰宅先(奈良)から、
東京の会社へ戻る日でした。
その日は9時半から経理部と情報システム部との会議が予定されていました。

 いつもは、家を朝5時10分位に出て、近鉄高の原駅発5時38分に乗ると
京都発6時15分の新幹線で、9時には六本木の会社に着いています。

 その日はいつものように近鉄京都線に乗って、しばらくすると新田辺
付近で、電車が停まりました。社内アナウンスでは「地震のためしばらく
停車します」とのことで、約2時間後やっと動き出しました。
それが、約25万軒全半壊、約6440人死亡の5時46分の阪神淡路大震災でした。

 10時頃着いたJR京都駅のアナウンスでは、神戸方面の地震のため、
東海道新幹線は名古屋以西停まっており、しばらくお待ち下さい
と言うばかりで、状況がわかりません。
たまたま持っていたラジオで、阪神地区で大地震があり、地域のすべての列車が
止まっているなどを知りました。

 約2時間京都駅で待ちましたが、京阪電車と新幹線名古屋以東は動いている
と知り、京阪電車で大阪に行き、淀屋橋からたタクシーで上六、上六から
近鉄大阪線で名古屋に、名古屋から14時20分の新幹線こだまで東京に戻りました。
日比谷線神谷町から会社へ着いたら夕方5時40分、勿論会議はとっくの昔に
終っていました。
 その後、震災の被害の大きさをニュースなどで知り、
東京へ無事に戻れただけでも幸運と思いました。
あわてていたためその時は、近鉄八木駅経由で名古屋という別のルートを
思いつきませんでした。
神戸の友人の家も半壊し、引越せざるをえなくなりました。

 このとき、固定電話がつながらない一方、携帯電話が比較的
つながりやすいことがわかり、会社では2月から全部門マネージャーに
携帯電話を持たせることになりました。
全フロアに保存食料や水を置くなど、このときの総務部の対応が大変早かった
ことを覚えています。

 この時以来自分でも、外出時には携帯電話やラジオなど通信手段を
持つようになりました。
災害の時、何がどうなっているのかわからない程不安なことはありません。
この時の経験から、種々の災害対策が全国的に実施されたので、
東北大震災でも、生かされたことが多々あったと思います。
(メデイアではあまり報告されていないようですが)

2011年10月19日水曜日

31. 国際会議で俳句会の説明

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラーに勤務のとき、毎年1、2回情報担当部長クラスの国際会議
に出席していましたが、私が部長職を退任することになった1998年5月の会議
(シュツットガルト近郊のホテルPark Gaggenau)では、会議のあと
短い送別会をしてくれました。
そのとき、司会の本社部長Ditchkofsky氏から、日本の俳句会(句会)のやり方を
説明してと要望がありました。

 仲間には以前私が下手な俳句をやっていることを話していたからでしょう。
またヨーロッパやアメリカの教科書にも日本の俳句が紹介されているようです。

そこで、私は、日本の俳句会はまったく民主的な会であると言って、
次のように句会のすすめかたを話しました。(もちろん英語で)

 まず、各出席者が自分の俳句を決められた数(5句とか10句)だけ、
一句ずつ紙の短冊(3X18センチくらい)に無記名で書き、世話人に提出します。

次に、世話人が集めた短冊を提出者が混じるよう10枚ずつ位にまとめます。

まとめた10枚くらいの短冊のセットと空白の清記用紙を、別の選句用紙と共に
各出席者にくばり、それぞれが、短冊から清記用紙に書き写します。

その清記用紙を世話人に集め、順の番号をつけてから、出席者に回覧します。
(人数が多いとコピーをとって小グループに分けて回覧します)

出席者は、回覧されてくる清記用紙の俳句から、自分が良い句と思う句を、
決められた数(5句とか10句)だけ選び、各自の選句用紙に記入します。

回覧と記入が終わったら世話人が、選句用紙を集め、
発表者(披講者)が、選者の名と選者が選んだ俳句を順次読み上げます。

俳句が読まれたらその都度、その句の作者が自分の名前を言います。

全部の選者(出席者)の選句が読み終わったら、世話人あるいは司会者が
司会して出席者が意見、質問などを出し合います。
指導者が出席されていれば、指導者から講評などをしてもらい、終了です。

 このように、句会は無記名でやるため、俳句に対しては、
まったく民主的で公正な評価がされると説明したら、うなづいて聞いて
くれました。
(ただし、俳句結社によって句会のやり方などが違うこともあります)

その時以来、ドイツには1999年に西暦2000年問題対策会議に出張しただけで、ドイツは遠くなりました。