2008年6月2日月曜日

24.フリーウエイで車がスピン

(a1.SE時代)

 1971年(昭和46年)9月から12月まで日本IBMの同僚のKさんとニューヨークに
滞在したときのことです。
当時(今もそうかもしれませんが)日本IBMでは、毎年5-6人のSE
(システムズエンジニア)をアメリカのIBMの教育研究期間である
SRI(Systems Research Institute)に、送っていました。
そこはSEの大学院のような所で、コンピュータに関するさまざまなテーマ
(言語、シミュレーション、通信システム、システムデザインなど)を研究し
生徒である全世界のSEに教える施設でした。
1回100人くらいのSEを集め、大学のように科目を自由選択させます。
当時はSRIはニューヨークの国連本部の前の5階建て位の小さなビルにあり、
私はレキシントンホテルからバスで通学(?)しました。
10月頃、Kさんと相談してナイヤガラの滝を一泊旅行で見に行くことになり、
大きなセダンのレンタカーを借りて、フリーウエイ(高速道路)のルート87
(87号線)からルート90のシラキュースに一泊しバッファローまで
車を走らせました。

その初日、たしかルート87を北上していたときと思いますが、
横を走りすぎる他の車のドライバーが窓から手を出し何かを合図します。
他の車も同じように合図するので、道の右端を走っていた運転手の私は
車を止めて点検しようとブレーキを掛けたとたん、タイヤがキーッと音を立てて
車が左にスピンし、4車線の真中で道路にほぼ直角に止まったのです。
後続の車がなかったので、我々は命拾いをしました。
当時日本の車はパワーブレーキでなかったので、ついブレーキに力を入れ過ぎた
のです。よく見ると左折のランプが点滅していました。
どこかで左折したとき、左折ランプを点滅させ消さないまま走っていたので、
他のドライバーが注意してくれたのです。
とにかく命拾いして、無事にきれいな公園のようなシラキュースに着き、
翌日カナダ側へ行きナイヤガラの滝を見物できました。
高速でスピンしたのはこれが最初で多分最後でしょうが、忘れられない事件です。
(蛇足ですが、ニューヨークの北のルート9号線は秋の紅葉がすばらしい道です)

2008年2月17日日曜日

23.爪を切る女の絵  

(2.幼稚園のころ)

 1950年(昭和25年)頃家の三階に昇る階段は、引き出しのついた
いわゆる箱階段で、左側にいくつかの取っ手があり、それらを引き出すと、
中に卒業証書やコタツなどが入っていたような気がします。
一つの引き出しには、2本の太刀と、仕込み杖が入っていました。
誰かが戦時中の金属供出運動にもかかわらず、隠しておいたのでしょう。
仕込み杖は長さ60-70センチ位なので、脇差かもしれませんが、
木の鞘(さや)を引くと、40センチ位の刀が出てきてびっくりしました。

その階段の上の正面の壁に50センチ位の丸い額が掛けてあり、
中央に四角い絵がありました。
その絵は長い髪の女が縁側にこちらを向いて座り、左足は縁側から
下ろし、右足を曲げて、鋏で爪を切っている絵でした。
三階へ昇るたびに、その絵がなにか幽霊が座っているように見え、
幼稚園から小学低学年の頃は怖くてしかたがありませんでした。

多分幼稚園の頃、母がお隣の同級生の女の子Mちゃんの家から、
鈴木三重吉の「赤い鳥」の絵本数冊を借りてくれ、三階の上がった所の
板の間で読んでいた記憶があります。
あの「赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」の歌が載っていました。
三階に上がって左の部屋は、父が生きていた1945年頃までは父の
写真の暗室だったと母に聞きましたが、私の記憶にはなく、
物心がついた頃はその部屋は納戸(物置)になっていました。
上がって右は4畳の小さい部屋2つで、小学高学年から、
弟と私のそれぞれの勉強部屋にしてもらいました。
その頃にはもうその絵は怖くなくなっていました。
またいつの間にかその絵は外され、中学生位のころ、隣の
Mちゃんが三階に遊びに来た時はすでになかったと思います。

(蛇足:階段の反対側は10畳位の客間でしたが、のちに母から
 1938年2月22日の父と結婚式の場所だったと聞きました)

2008年1月19日土曜日

22.ボーイスカウトのデンダッド

(a2.子育て時代)

 1978年(昭和53年)4月から、東京転勤になり当時のIBMの教育部に勤務し、
調布市に転居しました。
子供たちはそれぞれ6才、3才(ともに男子)になっており、
上の子は飛田給小学校に入学し、2年からボーイスカウトに入りました。

 1965年頃から日本は高度成長期に入り、どこの会社や商店も社員は猛烈に
働いたので、ほとんどの父親は家庭のことは母親に任せっぱなしでした。
私も同じでしたが、子供の成長期に先輩後輩のいる団体生活を経験させるのが
大事だろうと妻と相談して、上の子が小学校2年になった年から、
ボーイスカウトに入団させました。

 ボーイスカウトは、小学校2年から5年まではカブスカウトといって、
いわゆるボーイ隊の下の幼年隊として活動することになっています。
その場合、母親はデンマザー、父親はデンダッドとして、ボーイスカウトの
行事に参加することになっていました。

 カブスカウト隊は、ほぼ毎週1日近くのボーイスカウト基地(といっても
高速道路の下の空き地でしたが)に集まり、団長やリーダー(シニア隊員)
のお兄さん、お姉さんの指導で、ハイキングやロープの結び方の訓練など、
自然でのサバイバルの訓練を受け、夏休みなどは、多摩川上流の養沢などに
キャンプにいきます。

 キャンプの時などはデンダッドの私も参加して、子供たちの活動の監視や、
植物の名前を教えたり、きも試しの脅かし役をしました。
真っ暗な山の中で、きも試しの子供が通るのを変な声を出しておどろかすのが
任務のひとつでした。

 上の子は仲間の子供達と比べてこわがらないとリーダーに誉められて
父親の私はひとり喜んでいました。
互いに離れた所で二人一組のキャンプも訓練としてありましたが、
たまたま夜の雨となり、なかなかきつかったようです。

 下の子は白糸台幼稚園から小学校に入り2年になると入団しました。
多分その頃(1982年)だったと思いますが、指導者講習会にも出席し、
救命処置の訓練(包帯、人工呼吸など)も受けました。

 1983年か1984年頃まで、私もボーイスカウトの活動に参加しました。
上の学年になるほど子供たちも忙しくなり、徐々に隊の活動から抜けるよう
になりましたが、自然の中で団体生活を経験したことは、
多分何らかの形で役に立っていると思います。

2008年1月14日月曜日

21. ローマの道をアルファロメオで

(a1.SE時代)

 
 1965年10月頃日本アイ・ビー・エムでの新入社員教育が終わりSE(システムズエンジニア)になりました。
SEという仕事はユーザーでのコンピュータのシステム作りを提案・支援する仕事です。
最初の担当客先は関西電力でした。世界初のオンラインによる燃料経済配分システムなど意欲的なコンピュータシステムに参画できたのは幸運でした。
さらに1969年5月ローマにあったIBMの公共事業センターにトレーニ-として3ヶ月アサインされローマに滞在しました。
これは公共事業のシステム化営業を支援する10数名の国際的な組織で、世界の電力・ガス事業などのコンピュータ化の状況・システムを、研究して、システム販売のための情報を各国に配布するのが主な使命でした。
英会話は約3年間会社の志望者教育(始業前1時間英会話などを選択受講できた)を受けてTOEICやっと600点を越えました。
メンバーはマネジャー/ワクテル(アメリカ)、ステファン・インゼルシュタイン(ポーランド出身南アフリカ)、ミギンド(デンマーク)、ヘルムート(ドイツ)、ユーミッド(トルコ)、モハン・ラオ(インド)、ジャン・ピエール(フランス)、デビッド・サルツハウス(イギリス)、ナンシー(アメリカ)、秘書/パレスキ(イタリア)と私で、一時サッシャーアジミ(イラン)が滞在しました。
当時このセンターはイラン国営電力へのコンピュータシステムの提案書を作成中でした。私はこのプロジェクトに参加し周波数制御などのページを担当しました。英会話は何しろTOEICやっと600点ですから会議で発言などは無理で、議論もやっと半分くらいしか理解できませんでした。しかしこの経験のおかげで「英語で口論できなければ仕事にならない」と後日英会話の勉強に挑戦できました。
ヨーロッパの人達は生活を楽しみながら仕事をしている感じで、ある金曜日などは夕方急にローマの海岸(アスティア)で泳ごうとミギンドが言い出し、皆で2台の車でアスティア海岸まで行き、すもうを取ったり、泳いだりして遊びました。
ある時は、ジャンピエールが私を彼のアルファロメオの助手席に乗せて、ローマの空港に近い郊外の細い道を時速180キロで走ってくれました。アルファロメオに乗ったのはこれが最初(で多分最後)でした。180キロになると向こうの道路がこちらへどんどん飛んでくる感じで少しこわかったのを覚えています。のちに、自動車会社に勤務し、メルセデスベンツ、BMW、ボルボなどに乗る機会がありましたがスポーツカーは初めてで、その速さと格好のよさに感動しました。7月に勤務が終り帰国後もサルツハウスやモハンラオとは数年間クリスマスカードのやりとりをしました。IBMは多国籍企業ですがこのような国際チームで日常の仕事をするのは比較的まれで大変幸運だったと思います。

20. 東京オリンピックのプログラマー

(9.新入社員時代)


  卒業後入社した会社は日本アイ・ビー・エムという会社でした。
昭和38年(1963)ころはアイビーエムという会社も世間では知られておらず、ICBM(大陸間弾道弾)の会社かと間違われたこともありました。
私は同期生約250人の一人としてうち10人ほどと同じ大阪営業所(あわせて約45名)に配属されました。

  当時のアイビーエムは(今でもそうかもしれませんが)社員教育に大変力をいれていた会社で、すべての新入社員は1年半の教育を受けました。
1年半の教育の最後はマーケティング・スクールといい、客先幹部へのコンピュータシステムの提案をロールプレー(教育部幹部が客先幹部に、生徒は営業担当に扮して)としてプレゼンテーションをおこない客先からOKをもらうまでは卒業させてもらえず、駄目な場合は配置転換という厳しいものでした。
教育部は東京新宿にあったので、1年半の間の約半分は東京出張(旅館に宿泊)でした。

  その年の12月15日ころ、教室から呼ばれて、その後お世話になったT本部長から「お前は今日からIBM東京オリンピック本部(全部で約300名)に所属し、プログラマー要員として勤務しなさい」 と言われびっくりしました。
東京オリンピックの競技結果報告を報道機関などに提供する情報システムはIBMが提供したのです。
翌年1月から大田区のアパート1室を借り、永田町にあるビルに全体で約60人くらいのシステム開発部門に勤務し、水泳、飛び込み、陸上競技、クレイ射撃などの競技の結果報告プログラムを作成しました。
設計はすでに先輩諸兄がやってくれていたので、我々プログラマー要員45名はただプログラムを作成するだけでしたが、本番同様のスケジュールでのシステム・リハーサル完了のころまでは大変でした。

  とにかくシステムが完成し、1964年10月10日のオリンピック開会式のテレビ画面を、日本青年館のコンピュータセンターで見たときは感激しました。閉会後わずか2時間で全競技記録が印刷・提供されました。
東京オリンピックの時期から新幹線が走り出し高速道路が整備され、日本の高度成長が始まったのです。

  蛇足ながら、当時のアパート暮らし(もちろん独身)の生活費を記録しておきます。
給料約3万円、家賃(6畳一間小さな炊事場つき)7000円、電気代250円(以下月あたり)、ガス代260円、水道代60円、トイレ(共同)代60円、新聞代450円、散髪代300円、銭湯代400円、クリーニング代400円などでした。
この夏は東京は水不足で水道が2、3日止まり、氷を買って解かして飲んだりしました。
無事にオリンピックが終わり、昭和39年12月本部は解散し、私は元の職場(大阪営業所)に戻り、中断した新入社員教育の残り(マーケティイングスクールなど)を翌年受けました。
開催前に代々木のプールや朝霞のクレイ射撃場などを見学できたのも良い思い出です。

 また、T本部長とは、オリンピック後 (私が大阪営業所へ戻ったので) 別の所属となりましたが、
1971年秋ごろ本部長がIBM本社のトップの補佐をされていたとき、たまたま私が教育受講で
ニューヨークに滞在中、ニューヨークのご自宅にお邪魔しました。
久しぶりのお話をさせていただき、スイートメロンなどをご馳走になりました。



追記: 2012年6月2日

  2012年5月19日(土) 東京・新宿区の日本青年館4階梅の間で
IBMの東京オリンピック本部・50周年記念会が開催され、椎名元会長はじめ約40人が出席、私も奈良から出席しました。
この場所は、48年前オリンピックコンピューターセンターがあった所です。

  T本部長はご病気で欠席されましたが、先輩・同期生らと約50年ぶりに会いました。
Tシステム課長から、当初18名のSEでスタートしたシステム開発プロジェクトが、1963年末、IBM本社からの勧告で50名ほどに急きょ増員されたこと、オフィスは当初赤坂離宮1階だったこと、リハーサルを2.5回やったこと, 後で読売新聞の記事で、コンピューター・システムは大成功で、IBMチームは金メダルに値すると評価された、などを聞きました。
コンピューターそのものは大会終了後、日本初の銀行オンラインシステムとして、当時の三井銀行に導入されました。

  約50年ぶりに会っても、先輩・同期生と去年まで同じ職場だったような感じで、
親しく話ができたのに驚きました。当時は若かったのでお互いの記憶も鮮明なのでしょう。

19. 合唱の演奏旅行 

(7.大学時代)
 

 中学の合唱団オーディションに落ちたうらみがあったので、大学に大学に入学するや、直ちに男声合唱団に入団しました。(オーディションなしだったので入団はOKでした)練習場所は、当時中ノ島にあった医学部の階段教室でした。
我々の合唱団はドイツの歌が中心でレパートリーは「青きドナウ」やシューベルト歌曲、ドイツ民謡などでした。日本の男声合唱曲もありました。
入団してまもなく7月ごろ、なぜか山梨県に演奏旅行がありました。
今まで、演奏旅行などに行ったことがないので、緊張しましたが楽しかったです。
たしか1日目は富士宮市公民館、2日目は甲府第二高校でした。
同期は10人くらいでしたが総勢60人位の男声合唱ですから、迫力はありました。
歌がうまかったかどうかはわかりませんが、声だけは大きかったでしょう。
私のパートは当時はバス(一番低い音域のパート)でした。
高校の廊下で女生徒達にすれ違うと礼をしてくれて、面映かった記憶があります。
地方の土地土地でのライブで歌うプロ歌手の生活の一端もこのようなものかななど想像できました。演奏会終了後本栖湖などで遊んだのも思い出です。
その後、民間テレビ局のスタジオで演奏し放映されたこともあります。
40年以上経って、退職後、その男声合唱団のOBの合唱団に再入団させてもらい、なつかしい仲間に再会でき、演奏会などに出演できたのもラッキーでした。
男声合唱で第一テナー、第二テナー、バリトン、バスの4パートがピシッと合って、ハーモニーが取れた時の気持ちのよさは格別です。
自分たちが楽器になり、ホールの空気が共鳴してくれるのです。

18. 盆、正月は家は旅館のよう 

(4.小・中学時代)
 
 戦前(1941年以前)は生めよ増やせよの時代でしたから、どの家も子沢山でした。
父は兄弟・姉妹8人(うち2人は若死しましたが)の長男、母は6人兄弟姉妹の長女でした。
結果として、私の従兄弟・従姉妹は20人でした。
父方の従姉妹たちは12人いましたが、そのうちの6人は、よくお正月やお盆に親たちと私の実家に帰りました。
親たち(叔母や叔父)も含めると、10人以上になりますが、昭和20年から30年頃までは、家族は8人だったので、合わせると、20人近くの人(子供達が多いのですが)が、お正月やお盆に家に来て(帰って)泊まりました。
叔母や母は食事の準備や、布団の準備で大忙しでしたが、我々子供たちは大喜びでした。
家のほとんどの部屋がまるで旅館のように布団だらけになるのですから。
どこの家も昔は長男の嫁や養子娘は、お正月などは、大変な思いだったでしょう。
特にお正月は、帰る人が多いし、コタツが足りないので、2組の布団を逆方向に敷いて、つまり頭が逆方向になるように敷いて、2組の布団の真中にコタツを置き、2人で一つのコタツをつかう「あとさし」と祖母たちが呼んでいた方法で狭い6畳に4人とか5人が寝るのです。子供たちは面白がって枕投げをして暴れたり、まるで学校の修学旅行でした。
小学1、2年のころだったと思いますが、同学年の従姉妹とお医者さんごっこもしましたが、その従姉妹も先年なくなりました。
大人になってからは、恥ずかしくてそんな思い出話を本人としたことはありませんが、心残りな気がします。

17. 消えた父の勲章 

(8.大学時代から40才くらいまで)


 夏休みで実家に帰ったとき、(多分大学の2,3年生のころ?)母が3階の納戸から、父の手旗を
出して見せてくれました。父は戦争中、軍属として輸送船に乗っていたようですが、船同士の連絡などには手旗信号を使っていたようです。手旗は大きさ40X50センチくらいで、60センチくらいの柄がついており、当然赤と白の2つの旗がありました。紙箱に入れてあったような気がします。
その時だったと思いますが、父の勲八等白色桐葉章と額に入れた賞状を見せてもらいました。
実家では額を掛ける場所がなかったのでしょう。掛けられた額を見ていませんが、後に結婚後、母と同居したとき、母の部屋(37才のころ高田の家に離れ座敷を建てました)にはちゃんと飾ってありました。
しかし、後に東京転勤になり、関西へ帰ってからも、母と同居でしたが掛けられた勲章の額をみていません。
平成時代にはいって、勲章に等級があるのはおかしいということで、議論になり、今は勲章に何等などと区別しなくなりました。父の功績が他の7等の人より劣っていたとは考えたくないし、なくなった人に「あなたはxx等です」と言うのも失礼ではないでしょうか。
そのような世間での議論や、戦死者などに勲章を与えること自体が、国民を戦争に狩り立てる手段や仕掛けになっているという思いが母にもあったのではないかと思います。
ニューヨークの同時テロの翌年2002年末、母が86才でなくなったとき、遺された物を整理しましたが、
その中には、勲章や額、手旗がなくなっていました。
私が知らない間に母がそれらを処分したのでしょう。
どのような気持で、母が父の勲章を捨てたのか聞きたかった気がします。

16. 南極と交信 

(8.大学時代から40才くらいまで)
 

 私の学生時代は個人にとってインターネットなど世界と簡単につながる通信のしくみはなかったので、外国と通信する方法は、ペンフレンドあるいはアマチュア無線くらいでした。
親友のK君は、フィンランドの女の子とペンフレンドとなり何度か英語で手紙のやりとりをしていました。
私は機械にも興味があったので、アマチュア無線をはじめました。
アマチュア無線は今でも資格と簡単な無線機があれば誰でもできますが、国家試験が必要な趣味です。
大学一年のころ、そのアマチュア無線技師2級の試験を受け、運良く一回で合格しました。
2級は、電波の出力が100ワットまでできますが、無線電信のトンツーの試験もありました。
Aはト・ツー、Bはツー・ト・ト・ト などと覚えて、キーを叩き送信し、受話器で聞いて受信するわけです。
無線機は、キットを買って組み立てましたがそれでも100ワット級のは10万円はしたので、学生時代は手がでず、就職してから、機械とアンテナを購入し開局しました。
就職の数年後建てた家は大和高田市で、当時無線をする人が少なかったのでしょう。
電波を出すと、全国から同時に何十人もの無線家から応答(コール)をもらいました。
またたくまに、多くの人と交信ができました。
アンテナを水平に回転する装置もあったので、アンテナをヨーロッパ方向に向けてフランスやイタリアなどと交信したこともあります。
その後東京に転勤になり、調布市で無線機をセットし、しばらく交信をしていたある夜、京都の無線仲間のU氏から電話があり、今南極が出ているよと教えてくれました。
電波がつながりやすい日・時間帯とそうでない日があるのです。
直ちに、14メガヘルツの電波を頼りない高さ6メートルほどの垂直アンテナで電波を出すと、昭和基地から応答をもらいました。そのときの交信カードは今も保存しています。
一万キロ以上離れた遠い南極と交信できたとは信じられないようで興奮しました。

(南極昭和基地との交信カード 表)


(南極昭和基地との交信カード 裏)

       (1978年11月23日GMT13時41分:日本時間22時41分)

(愛用した無線機TS520Xと屋上のアンテナを回転させるローター)
(南極交信は調布の借家の屋上の垂直アンテナを使用しました)

15. 本の中の場面:ラザロの復活 

(7.大学時代)


 大学の教養課程の時代は、割合時間がありました。
夏休みなどは、実家の近くでアルバイトの家庭教師をしたり、親戚のテレビを組み立てたりしました。

 当時は真空管の白黒テレビで、日本橋でキットを買ってくれば、1日でテレビを組み立てることができました。
半田こてとドライバーだけで、当時4万円以上のテレビが2万円位で組み立てられ、1万円位も謝礼をもらい貯めたお小遣いで、アンプを組み立てたり、本を買いました。

 なぜか学生時代は文学全集を読もうと決め、河出書房の世界文学全集や、新潮社の日本文学全集を順次買い、殆ど読みました。今から考えるとよく時間があったのだなあと思います。
堀辰雄の「風立ちぬ」、ヘルマンヘッセの「車輪の下」などが好きでした。

 その中でドストエフスキーの「罪と罰」もありました。そのストーリーは殆ど忘れましたが、主人公のラスコーリニコフの恋人のソーニャが聖書の「ラザロの復活」のところを彼に読んで聞かせる場面だけが強く印象に残りました。

 家は日蓮宗でしたが、当時の私はさほど宗教心がなく、悩んだ時聖書あるいはお経の本を読むなどは、とても考えられなかったからです。

 その後、出張などでホテルに泊まったときに、よく部屋に置いてある聖書を、ぱらぱらとめくり、ラザロの復活の場面だけを読むことが何度かありました。

 キリストは死者のラザロを復活させる奇跡を起したために、磔刑(はりつけ)にされたのでしょう。
その後、30才台で病気になったとき、同期の友が贈ってくれた「般若心経」の解説本を読んだりして、徐々に宗教に関心を持つようになりました。

 だれでも病気や災難にあうとか、年をとるとかすれば、「人はどこから来てどこへ行くのか」とか、自分の生き方を考えるように(少しは哲学的にあるいは宗教的に)なるようです。
読んだ本の中身は殆ど忘れたので、読書自体はあまり役に立たなかったように思いますが、
少なくとも、外国や古き時代を想像できたり言葉や物の名前を覚える役には立ったでしょうね。

14. カルメンと下宿先のご主人

(7.大学時代)


 大学は大阪だったので、高校時代同様4年間下宿しました。
最初の教養課程の1年半は、校舎が阿倍野区にあったため、阿倍野区のおうちにお世話になりました。
そのお家の中学生の長男の家庭教師をさせてもらい下宿代は無料にしてもらいました。
昭和35年夏からは専門課程となり、校舎が豊中に変わったので池田市のおうちに下宿しました。
ここでも離れの良い部屋を使わせてもらいましたが、食事はほぼ自炊しました。
ご主人は有名な商社を退職された方で、当時70才くらいで病気で寝ておられました。
あるとき、ご主人がラジオでカルメンの放送があるので聞きたいと言われたので、私の大型のスピーカーボックスと自作のチューナー、アンプをご主人の部屋に運び込み、ラジオのカルメンを聞いてもらいました。
現職の頃はヨーロッパなどへ何度も出張されたようで、向こうで観劇されたオペラを思い出しておられただろうと思います。
そのようなこともあり、私はオペラにも興味を持つようなりましたが、のちに自分がローマでオペラを見られるとは想像もしていませんでした。
4年次からは寺田町のおうちにお世話になりました。ご主人は四天王寺のお坊様で落着いたよいご家庭でした。就職後も3ヶ月間は同じ部屋を使わせてもらい大事にしていただきました。

13. 黒板が決めた人生

(7.大学時代)


 大学は高校の同級生2人と同じ大学の工学部の電子工学科へ進学しました。
当時、トランジスターが世に出て、従来の電力や通信と異なる情報処理分野の基礎として、電子工学が流行(?)しはじめ、電子工学科は新しい学科として人気があり、結果として入学がむずかしかったので、3人が挑戦したわけです。運良く3人とも合格し、技術畑へ進みました。
ただ当時の電子工学はトランジスターのための半導体などの技術研究が中心で、その応用分野である回路やコンピュータはまだこれからといった感じでした。
最初の1年半は教養課程で、英語や日本史、数学などを勉強しました。当時は日本史などは興味がなく、あまり勉強しませんでしたが、今思えばもっと関連の本などを読んでおけばよかったと思います。
私以上に歴史を知らない(深く考えない)政治家や官僚が多すぎる現状は、困ったものです。
また70年前と同じ過ちを繰り返すのではと心配です。
後半2年半の専門課程で、あるとき回路理論の授業で、M教授が、黒板に回路図を描かれました。
そしてこの回路はIBMの回路(たしか真空管による記憶回路だったと思います)だといわれたのです。私はびっくりしました。私は大学や国の研究機関の研究が最高レベルで、大学の授業で民間企業の技術が講義されるとは思っていなかったからです。大学の授業で紹介される技術を持つとはすごい会社だと思い、記憶に残りました。
その後、卒業研究は仲間6人でコンピュータの論理回路(計算をする回路)の勉強をし、今で言う電卓の回路をトランジスタで構成する研究をO教授や、他の先生方の指導のもと、何とか設計しました。
(設計と言っても物理的な回路図以前の論理設計ですが)
4年次の夏ごろ就職活動では日本の電器メーカーの工場見学などをしました。
当時(1963年、昭和38年頃)工学部は売り手市場で希望する企業へほぼ全員が就職できました。また40人のクラスのうち、約15人も大学院へ進学したのでなおさらです。担任の教授が各社最高2名などと就職者の人数を割り当てて調整をしてくれました。
結局私は国産メーカーでなく、授業に出てきたIBMの日本法人である日本アイ・ビー・エムに応募し合格しました。技術がすごいらしいと思ったこととこれからはコンピュータの時代だろうと思ったからです。いわば黒板の回路図が私の人生を決めました。

12. 親友と下宿

(6.高校時代)


 高校2年になると、天王寺区の細工谷にあったお家に下宿しました。
このご主人は以前実家の近くに住んでおられたのでここも叔父が頼んでくれたと思います。
2年の2学期から3年の5月までは玉造の小さなアパートに部屋を借りて下宿し自炊しました。
3年の6月から卒業までは寺田町のお家の2階に仲の良かった同級生K君と二人で下宿しました。
2階は2部屋だったので、勿論部屋は別に住みましたが、自炊は二人で交代しました。K君は家が京都だったので下宿する必要があったのです。夏休みにK君と他の友達3人と琵琶湖の舞子浜でキャンプしたのは良い思い出です。
K君とは大学が別だったのですが、卒業後、会社の仕事で彼がコンピュータを使うことがあり、当時私の勤務先であったIBMのコンピュータセンターに訪問してくれたので何度か会うことができました。
その後も私の東京転勤時代に彼の出張などで東京に来た時に何度か会い、退職後も大阪で会いましたが、数年前に肝臓の病気でなくなりました。
高校時代の友達は、彼の他に数人あり今でもメールのやりとりをしたり、同窓会などで会います。
若い時からの友人は男女を問わずありがたいもので、久しぶりに会ってもすぐうちとけて話せますね。
友は一生の宝物です。

11. 砂糖問屋に下宿 

(6.高校時代)


 高校は家から通学すると片道2時間かかったので、大阪に下宿させてもらいました。
高校3年間になんと5回も下宿先をかえ、同級生には「趣味は引越し」と言っていました。
最初は美章園の親戚の家でした。この親戚も戦争中家の近所に疎開していたので、よく知っているお家でした。
叔父さんは祖父の従兄弟だったので父は「はとこ」の関係でしたが、叔父さんとその三人娘と同居しました。
3人とも私より年上でしたが大事にしてくれました。
その後、2学期は家から電車通学をし、3学期は梅田の曽根崎警察署の裏側の町(兎我野町)にあった砂糖問屋さんに下宿しました。下宿先を変えた理由は覚えていません。
問屋さんは家の食料品店の大阪中央市場での取引先でした。
広い店の土間に砂糖の袋が山ほど積んでありましたが、その砂糖をなめた記憶はありません。
食事は問屋さんの住み込みの若い店員さん5、6人と一緒でした。
期間が短かったので残念なことに仲良くなった店員はいません。

10. 1000人合唱の指揮 

(6.高校時代)


 高校は大阪の高校でしたが、私は田舎の中学出身なので数学などは教科の進度が遅れていました。数学の先生は怖い人で、私語をするとチョークが飛んできましたがやさしい人でもあり、授業の始め私に「中学ではどこまで進んでいたか」を聞いてくれ「二次方程式までやりました」というとその次からそこから授業を進めてくれました。
今でもそうでしょうが、生徒たちはすべての先生にあざなをつけて面白がっていました。「張子の虎」、「バケツ」、「お父ちゃん」などなど。黒板拭きを教室の戸(当時はすべて引き戸でした)のすき間の一番上にはさんで先生が戸を開けると落ちるようにしましたが、先生は慣れているのでなかなかひっかかりませんでした。
一年は柔道部に入りましたがきつくて下宿の階段を這って登るような日もあったので、2年からは退部しました。1年の途中だったと思いますが音楽部に入り、合唱などを楽しみました。2年の後半から部長をやらされ、例年どおりの音楽会を開催しました。プログラムに載せる広告取りも部長の仕事でした。「夏の思い出」などよく歌いました。

3年の時だったと思いますが運動会での校歌合唱を指揮しました。
1000人以上の合唱の指揮は大変で緊張し足がふるえました。

9. 試験に出た行基さん

(5.中学時代)


 家は食料品店だったので、お盆やお正月の前は非常に忙しく、日中は常に何人かのお客さんが店の中で買い物をしていました。店員は母と叔父夫婦だけでしたので(後に親戚の叔母がお手伝いにきてくれましたが)我々兄弟3人が手伝いました。
醤油の計り売り、砂糖や乾物の袋入れ、地方の小売店への荷造り、集金周りなど、手伝うことは沢山ありました。
また田植えの時期や、草取り、稲刈り、麦踏み、麦刈りの時期は、明治生まれの厳しい祖父の後をついて田や畑に出ました。水一杯のたんご(担桶)2つを「おうこ」(担い棒)に掛けて背負い、畑の急な坂道を登ったこともあります。夏の田の草取りが一番きつい仕事でした。
父親代わりの叔父と田へ行った時など、叔父はよく「誰か故郷を想わざる」の歌を良い声で歌っていました。私が欲しがったので、叔父は私を連れて大阪日本橋へ行き、当時の初任給より高いカメラ(1.4万円)を買ってくれました。
3年の冬12月祖父が畑で急に脳溢血で倒れ、約2日間意識不明のまま永眠しました。戦争で長男と長女の夫を失い家族のため働き続けた一生でした。

 学校の図書室には講談全集の本が20冊ほどが含まれていました。私はその「太閤記」、「里見八犬伝」や「猿飛佐助」などを借りて全部読ませてもらい、以来本好きになりました。
当時塾がなかったので、私は2、3年生のときは仲間と3人でアメリカ帰りの英語の先生に月2回ほど英語の勉強をみてもらいました。
先生の勧めもあり、国立大付属高校を他の2人と受験しましたが全員不合格でした。
何分田舎の中学で習っていない行基さんなどが試験に出たのです。ひどーい!
名誉挽回で大阪の高校を受験し合格できました。
県外受験のために叔父や叔母は奔走してくれました。

8. 合唱団のオーディション 

(5.中学時代)

 昭和28年4月から中学生になったのですが、まだまだ小学生の気分が抜けていなかったようです。1年のときは女の先生でしたが、さすがに遠足の時におんぶしてもらいませんでした。しかし夏休み日記に毎日裏の川で魚とりや、石積みして堰遊びをした様子を書いたので先生から「そろそろ受験のことも考えて勉強しなさい」と日記にコメントを書かれました。
私の中学は合唱コンクールの地区大会で金賞を何度も取っています。
私は音楽が好きでその合唱団に応募しましたが、オーディションで不合格となりました。オーディションで歌った歌は覚えていませんが。
しかしこの恨みが終生忘れられず(?)、高校では音楽部(後には音楽部長ですぞ)、大学では男声合唱団、退職後も一時合唱団に入るというように、音楽から離れられなくなりました。
多分父親が音楽好きで、出征前は青年団でバイオリンやマンドリンを弾いていたという遺伝子をもらったからでしょう。合唱団の代わりにクラリネットに挑戦しましたが指の長さが足りなくて「シ」の音が出せずあきらめました。
スポーツの方は1年から2年まで柔道部でしたが熱心でなかったのでしょう。初段もとらずに卒業しました。寒い冬の朝汗が凍り付いた柔道着を着るのは痛くてきつかったです。得意は背負い投げでした。当時はけんかには負けなかったです。

多分2年生の時、遺族会から町の中学生の集団旅行で東京の靖国神社に参拝しました。
特急のなかった時代です。当時は靖国神社に祀られることは家の名誉でした。
今思えば靖国神社は国民をいくらか安堵させて死地に送り出すための戦争装置だったのですが当時の私は単純でした。修学旅行も東京だったので、中学時代に2度も上京したことになります。
修学旅行の旅館で、戦争中近所に疎開し後に東京へ戻った幼友達の女の子と再会したのも遠い記憶です。その後彼女とは東京転勤時代に1、2度会っただけですが。

7. 蔵の2階は図書館 

(7.小学校のころ)

 家の裏には大きな2階の蔵がありました。この蔵は昔酒屋の酒蔵だったそうで、昭和の初めに家を買ったときについていたそうです。広さは1階、2階とも60畳分(30坪)あり、1階は土間で2階は板敷きでした。直径1メートルほどの大きな梁(はり)が2階の天井に見えていました。
家と蔵は泉水のある小さな庭でつながっており、入ると左側に唐臼(足踏み式の臼)がありその向こうに2階への階段がありました。
階段の下は米や麦の穀物置き場、右側は店の缶詰などの商品倉庫でした。奥には芋穴(地下に掘った芋置き場)があり、弟が母の言うことを聞かない時などはお仕置きとして、芋穴に閉じ込められました。
その先は裏の出入り口で、日中は常に開いていました。蔵の戸が厚くて重いので開け閉めが大変だったからでしょう。
蔵には大きな青大将(へび)が棲んでおり、蔵の中の卵をときどき飲みました。一度卵を飲んで長い胴体の一部が大きくふくれているのを見つけ、叔父が尻尾を持って振り回し殺しました。見つけたばかりに気の毒なことをしました。
2階に上がると、すぐ右には乾物などの在庫置き場で、奥には仕出し料理用の皿が何十種類も積まれていました。
中央や右の壁際にはいくつも長持ちやたんすなどの家具が置いてありました。その中に本箱もいくつかあり、叔父や叔母の小・中学校時代の教科書などが沢山ありました。
小学校の頃などはよく蔵の2階に登って探検をしました。
本箱の教科書の中で叔父の工業高校時代の数学の教科書があり、鶴亀算(鶴と亀の数と足の数からそれぞれ何匹か計算する方法)を連立方程式で解くページがあり、それから連立方程式を知り、随分楽に鶴亀算を解けるようになりました。
そのほかにも私には珍しい本があり、小学生の私にとっては蔵の2階は図書館でもありました。

(図はクリックすると拡大します)


6. 子取り婆 

(6.小学校のころ)

子供の頃、悪いことをすると母や祖母から「子取り婆がくるよー」と、おどかされました。子取り婆は大きな袋を肩にかついで子供をさらい、袋に入れて遠くに売りにいくのだと聞かされました。
まるで北朝鮮の工作員の拉致(らち)のようなものです。
森鴎外の「山椒大夫」のように昔から子供の拉致・人身売買があり、その話が田舎の町にも届いていたのかもしれません。

家の畑のある杉ヤ谷という谷の奥に大きな池がありました。
その池は「山口の池」と呼んでいたので、たぶん同じ町の農家の池だったのでしょう。
小学校の1、2年の頃のある日、弟たちとその池に遊びに行きました。
池の奥の草ぼうぼうの対岸に探検にいくと、崖に直径1メートルほどの穴がありました。その中は暗くて奥が見えなかったですが、まず弟が穴をのぞいて怖くなったのでしょう。「子取り婆が来るぞー」と言って走りだしました。私もわけもなく怖くなり弟達と谷の道を走りました。途中で石ころにつまずいて右ひざに怪我をし血が流れてきて、痛いし怖いし、泣きながら家まで帰りました。

少し大きくなってからは、「山口の池」には時々鮒釣りに行きました。ミミズの餌でフナが釣れるのですが、たまに「いもり」が掛かるのです。いもりはトカゲのような形でおなかが真っ赤です。これが釣れるとはずすのが怖く泣きそうになりました。その頃から釣りは大好きで、裏の川でも「はいじゃこ(ハエ)」をよく釣りました。

5. きゃら(伽羅)の木登り

(4.小・中学時代)


 母の里は家から4キロほど西の紀ノ川の近くでした。
2才の頃、弟が生まれたので、数週間私は母の実家に預けられたと母から聞きました。
勿論その頃の記憶はありません。

 しかし小学校前からよく母と弟達と一緒に母の里へ遊びにいきました。勿論泊りがけです。
小学生と中学生の夏休みは決まって、1週間以上里に泊まりました。

 母の里は梨園で普段の家(下の家)と別に梨園の山に家があり、
山の家では梨をたらふく食べたり、蝉を採ったりしました。
山の家の夕方は、蚊が多いので祖母が蚊くすべ(蚊遣り)のため松の小枝を折って
土間でくすべて(焚いて)くれました。

 下の家では庭の木(大きな伽羅(きゃら)の木)に登ったり、川に泳ぎに行きます。
子供にとっては天国でした。
近所に母の妹の家や、祖父の妹の家があり、よく遊びに行きました。
駅から母の里まで歩いて20分ほどでしたが、母と一緒に歩く道は、当時は地道でしたが
わくわくする楽しい道でした。

 母と一緒でないときは、小さい頃は実家の叔父(母の弟)が自転車で迎えに来てくれました。
小学校の頃、叔母(母の妹、当時独身)が結核のため実家で寝ており、短歌などを作っていました。そのそばで色々話をしました。

 短歌にあったのでしょうが、当時東京上野の駅の付近や上野公園には大勢の孤児(みなしご)がおり、食べるものを得るのさえ大変だったとききました。多分彼らは私とほぼ同じ年頃と思いますが、その後彼らはどのような運命をたどったでしょう。

 母も叔父も叔母も数年前なくなりましたが、上野の子供達と比べてはるかに幸せな子供の頃を過ごせたのは母の里のおかげでもあるでしょう。

      蚊遣にと祖母焚きくれし松小枝  常朝 (運河2006年10月)

4. 配給の行列 

(4.小学校のころ)



 戦時中から敗戦直後は食糧難だったので、各家庭が一定の物しか買えない配給制度でした。家は食料品店だったので、戦後配給のため米国占領軍の援助によるコーリヤンの袋がトラックから大量に降ろされたのを覚えています。配給の時間には、店の前のトラックが一台やっと通れる狭い道路に沿って、30~50人くらいの主婦が並びました。その行列のすき間から近所の2才の男の子が飛び出し、走ってきたトラックに引かれなくなりました。畑の食物も充分でなく、さつまいものツルや土手の「のびる」などを摘んできておかずの足しにしていました。配給の行列がなくなったのは昭和25年頃だったでしょう。

しかしラジオでは、「鐘の鳴る丘」の主題曲「とんがり帽子」や「リンゴの歌」が流れ、物資の乏しい中にも戦争中の圧迫感から解かれた開放感がありました。今のような格差社会とは異なり、みんな貧しいけれど、みんなに希望のある、青空の高い時代でした。小学校では、社会科の自由研究で、地方の産物などを調べて発表したようです。これは幼友達から聞いただけで、私は殆ど覚えていませんが。冬の夜は地区ごとの子供仲間で「火の用心」とさけびながら拍子木を打って歩き、夏は、金毘羅祭、八幡祭、天神祭、地蔵祭、盆踊り、花火大会など次々に来るイベントに参加できる平和な時代を過ごすことができました。

3. 校舎の屋根の宝物 

(3.小学校のころ)



 小学校はその頃6組あり、何故かずっと1組でした。入学は昭和22年4月でした。
小学校の校舎はもちろん瓦ぶきで木造2階建て、大きな講堂がありました。
校門をはいると正面に五葉の松の木があり、右手に奉安殿(天皇陛下の御肖像を安置する建物)、玄関左手に薪を背負った二宮尊徳銅像がありました。
講堂の右手だったと思いますが、畳敷きの部屋があり、2年のときはそれが1組の教室でした。多分小学校は以前裁縫学校(旧小学5年相当)でもあったので裁縫などを教える部屋だったのでしょう。1年から3年は担任が女の先生で、特に1年の時の遠足は、自分の家の畑の近くの峰山という山に登ったのですが、途中で歩かなくなり先生におんぶしてもらったのを覚えています。
1年の秋の学芸会では浦島太郎役をさせてもらい衣装の脚半などは母が縫ってくれました。4年から6年は男の先生で、昔の戦争の話をよくしてくれました。
源平合戦や南朝・北朝の戦などがとくに面白く聞かせてもらいました。
友達2人と仲良し3人組を作っていたのですが、卒業の前に、校舎の屋根の鬼瓦の裏に宝物(珍しい貝か何かだったのでしょうが忘れました)を3人で隠しました。
勿論その校舎はその後、コンクリートに建て替えされたので我々の宝物は永久に失われました。人類にとって惜しいことです。

2. こいのぼりに潜る 

(2.幼稚園のころ)


 私の幼稚園のころはたしか1年保育だけでした。
多分昭和21年春からでしょうが、町にひとつしかない幼稚園に行き始めましたが、好きな女の子が退園してしまったためか(?)、途中でやめてしまいました。
幼稚園の庭に回転木馬(椅子以外は鉄製の)があり、よくそれで遊んでいたのを覚えています。
そのころは牛若丸や花咲じじいの絵本を買ってもらい読んでいましたが、かな文字は小学校入学前に覚えていたようです。(今では当たり前でしょうが)
その頃かおもちゃのトラックを買ってと町のおもちゃ屋さんの前で泣いて動かなくなり母を困らせたと後に聞きました。
大体物にこだわり、一旦欲しいと思うと頑固に欲しがる方で、周囲を困らせていたようです。
裏の庭に広い物干し場があり、そこで疎開していた従姉妹たちや従兄弟たちとよく遊び、また兄弟や近所の男の子たちとは戦争ごっこで近所の里山に木の枝などで陣地を作り、大方外で遊んでいました。
また父親がいなくても祖父が大きな鯉のぼりを立ててくれました。畑仕事を手伝ってくれていた近所のおじさんと祖父が山の杉の木(10メートル以上)を切出して、鯉のぼりの棹として裏庭に立て、大きな鯉のぼりを上げてくれました。よくおろした鯉のぼりの中に潜って遊びました。
またそのおじさんは裏庭の鶏小屋から一羽をだして食料用につぶしてくれました。見ていてあまり気持ちの良いものではなかったですが。

           (当時の蔵と物干し場)

1. 無花果(いちじく)と防空壕  

(1.生まれた頃のこと)


 私が生まれた昭和15年(1940年)は、日独伊三国同盟が結ばれ大政翼賛会が結成され、日本は戦争の準備をしていたようです。
私の小さい頃はもちろんそんなことは知らず、裏の蔵の庭で弟や近所の子供達と遊んでいました。
戦争で覚えているのは、西の山の上の空が赤く染まっており、大人の人から「あれは大阪が空襲で燃えているのや」と教えられたこと、B29(アメリカの爆撃機)が空から撒いたビラを裏庭で拾ったこと、それに裏の庭の川のそばに無花果の木があり、その左側に防空壕があったのを覚えているくらいです。
父は昭和16年10月から19年2月まで出征したので、父に抱かれた記憶はかすかにあるのですが多分19年帰還したとき(4歳)と思います。
父はガダルカナル島近くで輸送船に乗っていた時爆撃され、泳いで島に着き、その後病気になり広島陸軍病院で療養中除隊になり帰還したのですが、21年2月病気がなおらず死亡しました。
小学校入学後のクラスでは50人のうち10人くらいは戦争で父親をなくした子でした。

   無花果の樹の横にあり防空壕    常朝 (俳句誌運河2006年11月)