2008年1月14日月曜日

9. 試験に出た行基さん

(5.中学時代)


 家は食料品店だったので、お盆やお正月の前は非常に忙しく、日中は常に何人かのお客さんが店の中で買い物をしていました。店員は母と叔父夫婦だけでしたので(後に親戚の叔母がお手伝いにきてくれましたが)我々兄弟3人が手伝いました。
醤油の計り売り、砂糖や乾物の袋入れ、地方の小売店への荷造り、集金周りなど、手伝うことは沢山ありました。
また田植えの時期や、草取り、稲刈り、麦踏み、麦刈りの時期は、明治生まれの厳しい祖父の後をついて田や畑に出ました。水一杯のたんご(担桶)2つを「おうこ」(担い棒)に掛けて背負い、畑の急な坂道を登ったこともあります。夏の田の草取りが一番きつい仕事でした。
父親代わりの叔父と田へ行った時など、叔父はよく「誰か故郷を想わざる」の歌を良い声で歌っていました。私が欲しがったので、叔父は私を連れて大阪日本橋へ行き、当時の初任給より高いカメラ(1.4万円)を買ってくれました。
3年の冬12月祖父が畑で急に脳溢血で倒れ、約2日間意識不明のまま永眠しました。戦争で長男と長女の夫を失い家族のため働き続けた一生でした。

 学校の図書室には講談全集の本が20冊ほどが含まれていました。私はその「太閤記」、「里見八犬伝」や「猿飛佐助」などを借りて全部読ませてもらい、以来本好きになりました。
当時塾がなかったので、私は2、3年生のときは仲間と3人でアメリカ帰りの英語の先生に月2回ほど英語の勉強をみてもらいました。
先生の勧めもあり、国立大付属高校を他の2人と受験しましたが全員不合格でした。
何分田舎の中学で習っていない行基さんなどが試験に出たのです。ひどーい!
名誉挽回で大阪の高校を受験し合格できました。
県外受験のために叔父や叔母は奔走してくれました。

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