(9.新入社員時代)
卒業後入社した会社は日本アイ・ビー・エムという会社でした。
昭和38年(1963)ころはアイビーエムという会社も世間では知られておらず、ICBM(大陸間弾道弾)の会社かと間違われたこともありました。
私は同期生約250人の一人としてうち10人ほどと同じ大阪営業所(あわせて約45名)に配属されました。
当時のアイビーエムは(今でもそうかもしれませんが)社員教育に大変力をいれていた会社で、すべての新入社員は1年半の教育を受けました。
1年半の教育の最後はマーケティング・スクールといい、客先幹部へのコンピュータシステムの提案をロールプレー(教育部幹部が客先幹部に、生徒は営業担当に扮して)としてプレゼンテーションをおこない客先からOKをもらうまでは卒業させてもらえず、駄目な場合は配置転換という厳しいものでした。
教育部は東京新宿にあったので、1年半の間の約半分は東京出張(旅館に宿泊)でした。
その年の12月15日ころ、教室から呼ばれて、その後お世話になったT本部長から「お前は今日からIBM東京オリンピック本部(全部で約300名)に所属し、プログラマー要員として勤務しなさい」 と言われびっくりしました。
東京オリンピックの競技結果報告を報道機関などに提供する情報システムはIBMが提供したのです。
翌年1月から大田区のアパート1室を借り、永田町にあるビルに全体で約60人くらいのシステム開発部門に勤務し、水泳、飛び込み、陸上競技、クレイ射撃などの競技の結果報告プログラムを作成しました。
設計はすでに先輩諸兄がやってくれていたので、我々プログラマー要員45名はただプログラムを作成するだけでしたが、本番同様のスケジュールでのシステム・リハーサル完了のころまでは大変でした。
とにかくシステムが完成し、1964年10月10日のオリンピック開会式のテレビ画面を、日本青年館のコンピュータセンターで見たときは感激しました。閉会後わずか2時間で全競技記録が印刷・提供されました。
東京オリンピックの時期から新幹線が走り出し高速道路が整備され、日本の高度成長が始まったのです。
蛇足ながら、当時のアパート暮らし(もちろん独身)の生活費を記録しておきます。
給料約3万円、家賃(6畳一間小さな炊事場つき)7000円、電気代250円(以下月あたり)、ガス代260円、水道代60円、トイレ(共同)代60円、新聞代450円、散髪代300円、銭湯代400円、クリーニング代400円などでした。
この夏は東京は水不足で水道が2、3日止まり、氷を買って解かして飲んだりしました。
無事にオリンピックが終わり、昭和39年12月本部は解散し、私は元の職場(大阪営業所)に戻り、中断した新入社員教育の残り(マーケティイングスクールなど)を翌年受けました。
開催前に代々木のプールや朝霞のクレイ射撃場などを見学できたのも良い思い出です。
また、T本部長とは、オリンピック後 (私が大阪営業所へ戻ったので) 別の所属となりましたが、
1971年秋ごろ本部長がIBM本社のトップの補佐をされていたとき、たまたま私が教育受講で
ニューヨークに滞在中、ニューヨークのご自宅にお邪魔しました。
久しぶりのお話をさせていただき、スイートメロンなどをご馳走になりました。
追記: 2012年6月2日
2012年5月19日(土) 東京・新宿区の日本青年館4階梅の間で
IBMの東京オリンピック本部・50周年記念会が開催され、椎名元会長はじめ約40人が出席、私も奈良から出席しました。
この場所は、48年前オリンピックコンピューターセンターがあった所です。
T本部長はご病気で欠席されましたが、先輩・同期生らと約50年ぶりに会いました。
Tシステム課長から、当初18名のSEでスタートしたシステム開発プロジェクトが、1963年末、IBM本社からの勧告で50名ほどに急きょ増員されたこと、オフィスは当初赤坂離宮1階だったこと、リハーサルを2.5回やったこと, 後で読売新聞の記事で、コンピューター・システムは大成功で、IBMチームは金メダルに値すると評価された、などを聞きました。
コンピューターそのものは大会終了後、日本初の銀行オンラインシステムとして、当時の三井銀行に導入されました。
約50年ぶりに会っても、先輩・同期生と去年まで同じ職場だったような感じで、
親しく話ができたのに驚きました。当時は若かったのでお互いの記憶も鮮明なのでしょう。
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