2008年1月14日月曜日

21. ローマの道をアルファロメオで

(a1.SE時代)

 
 1965年10月頃日本アイ・ビー・エムでの新入社員教育が終わりSE(システムズエンジニア)になりました。
SEという仕事はユーザーでのコンピュータのシステム作りを提案・支援する仕事です。
最初の担当客先は関西電力でした。世界初のオンラインによる燃料経済配分システムなど意欲的なコンピュータシステムに参画できたのは幸運でした。
さらに1969年5月ローマにあったIBMの公共事業センターにトレーニ-として3ヶ月アサインされローマに滞在しました。
これは公共事業のシステム化営業を支援する10数名の国際的な組織で、世界の電力・ガス事業などのコンピュータ化の状況・システムを、研究して、システム販売のための情報を各国に配布するのが主な使命でした。
英会話は約3年間会社の志望者教育(始業前1時間英会話などを選択受講できた)を受けてTOEICやっと600点を越えました。
メンバーはマネジャー/ワクテル(アメリカ)、ステファン・インゼルシュタイン(ポーランド出身南アフリカ)、ミギンド(デンマーク)、ヘルムート(ドイツ)、ユーミッド(トルコ)、モハン・ラオ(インド)、ジャン・ピエール(フランス)、デビッド・サルツハウス(イギリス)、ナンシー(アメリカ)、秘書/パレスキ(イタリア)と私で、一時サッシャーアジミ(イラン)が滞在しました。
当時このセンターはイラン国営電力へのコンピュータシステムの提案書を作成中でした。私はこのプロジェクトに参加し周波数制御などのページを担当しました。英会話は何しろTOEICやっと600点ですから会議で発言などは無理で、議論もやっと半分くらいしか理解できませんでした。しかしこの経験のおかげで「英語で口論できなければ仕事にならない」と後日英会話の勉強に挑戦できました。
ヨーロッパの人達は生活を楽しみながら仕事をしている感じで、ある金曜日などは夕方急にローマの海岸(アスティア)で泳ごうとミギンドが言い出し、皆で2台の車でアスティア海岸まで行き、すもうを取ったり、泳いだりして遊びました。
ある時は、ジャンピエールが私を彼のアルファロメオの助手席に乗せて、ローマの空港に近い郊外の細い道を時速180キロで走ってくれました。アルファロメオに乗ったのはこれが最初(で多分最後)でした。180キロになると向こうの道路がこちらへどんどん飛んでくる感じで少しこわかったのを覚えています。のちに、自動車会社に勤務し、メルセデスベンツ、BMW、ボルボなどに乗る機会がありましたがスポーツカーは初めてで、その速さと格好のよさに感動しました。7月に勤務が終り帰国後もサルツハウスやモハンラオとは数年間クリスマスカードのやりとりをしました。IBMは多国籍企業ですがこのような国際チームで日常の仕事をするのは比較的まれで大変幸運だったと思います。

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