2008年1月14日月曜日

1. 無花果(いちじく)と防空壕  

(1.生まれた頃のこと)


 私が生まれた昭和15年(1940年)は、日独伊三国同盟が結ばれ大政翼賛会が結成され、日本は戦争の準備をしていたようです。
私の小さい頃はもちろんそんなことは知らず、裏の蔵の庭で弟や近所の子供達と遊んでいました。
戦争で覚えているのは、西の山の上の空が赤く染まっており、大人の人から「あれは大阪が空襲で燃えているのや」と教えられたこと、B29(アメリカの爆撃機)が空から撒いたビラを裏庭で拾ったこと、それに裏の庭の川のそばに無花果の木があり、その左側に防空壕があったのを覚えているくらいです。
父は昭和16年10月から19年2月まで出征したので、父に抱かれた記憶はかすかにあるのですが多分19年帰還したとき(4歳)と思います。
父はガダルカナル島近くで輸送船に乗っていた時爆撃され、泳いで島に着き、その後病気になり広島陸軍病院で療養中除隊になり帰還したのですが、21年2月病気がなおらず死亡しました。
小学校入学後のクラスでは50人のうち10人くらいは戦争で父親をなくした子でした。

   無花果の樹の横にあり防空壕    常朝 (俳句誌運河2006年11月)

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