2009年12月12日土曜日

28. 東京を売ればアメリカが買えた?

(a3.マネージャー時代)

 1988年2月、縁あって約25年勤めた日本アイビーエムを退社し、
ダイムラー日本(当時メルセデス日本)株式会社に転職しました。
コンピュータのメーカーからユーザー企業へ転身でした。
情報システムの責任者として入社したので、その翌年5月27日から6月9日、
ドイツの本社で新任マネージャー研修を受けました。
人事部のYさん、財務部の新部長のTさん(当時次長)とおなじコース
でした。
各国の子会社からもマネージャーが出席していたので、それぞれが
自分の国を紹介する時間がありました。
我々日本のチームは、財務部次長のTさんが発表してくれましたが、
そのとき日本地図などを見せながら、日本は土地バブルで、
「東京を売ればアメリカ(土地)を買えます」というと、
皆びっくりしました。
誰かが「だれが東京を買うの?」と質問したので、「nobody」と答えると
皆大笑いでしたが。

 その後1989年末、日経平均株価は最高値38,915円をつけ、
1990年バブルが弾けて、大手銀行や証券会社が倒産し、
日本経済は失われた15年を歩みました。
それでも、私が定年退職する2000年ころまでは自動車販売もほぼ順調で、
入社後4~5年かけて会社で必要なコンピュータシステムを、
周囲の協力のおかげでなんとか完成できたのは幸運でした。

2009年5月19日火曜日

27. 新聞の俳句欄に投稿

(a2.子育て時代)

 上の子が5才位のころ俳句に興味を持ちはじめました。
その頃の俳句に

  はしゃぐ子をとらえて祭の法被着す
  障子の間成りて眺むる柘榴の実

などがあり、銀行勤務のかたわら俳句を楽しんでいた義父に添削して
もらったこともあります。

 1977年(昭和52年)その義父が入院し同年3月23日の朝日新聞の大和俳壇に

  雛の日に雛なし父の病み給ふ

が末席ながら入選・掲載されました。

 そのときの選者は右城暮石(うしろぼせき)先生で、その後先生主宰の
俳句結社「運河」に入会し、句会に出席するようになりました。
義父は1979年5月、右城先生は1995年8月なくなりましたが、
私が俳句の世界に入り、今でも下手ながら俳句を続けておられるのは
このお二人のおかげと感謝しています。

2009年5月14日木曜日

26. 出演料払ってカラオケ

(a3.マネージャー時代)

1978年(昭和53年)4月、ついに私は東京転勤の辞令を受けました。
当時からIBMは I'v Been Moved (移動させたれた)の略だという話が
あったほど、転勤は珍しい事ではなかったのです。
しかし私は関西が好きなのでかなり抵抗があり、家も母の離れを新築して
1年しか経っていなかったので、家族も大変でしたが、
13年間お付き合いいただいたご近所と別れて一家5人が東京に移転しました。

 東京での職場は営業所と違って本社教育部でした。
教育部はお客様のシステム担当者、管理者、経営者に対する講習と、
社員に対する研修が主な仕事で私は社員教育担当部でした。
4月に配属になったグループでは私の歓迎会を兼ねて、飯能市の川原での
ピクニックと野草採りをしてくれました。
今から考えれればのどかな時代でした。

 教育部のメンバーはいずれもカラオケが好きで、部員懇親会などでは必ず
カラオケを楽しむのですが、いつもマイクの奪い合いになるので、
あるときからは、出演者が1曲ごとに出演料500円を払うルールになりました。
机の真中に紙箱を置き、そこに500円!とか2曲分1000円!とか言ってお金を
入れるのです。
「天城越え」「さざんかの宿」「氷雨」などが人気曲でした。
 
 主任以上のSE(システムエンジニア)の技術教育で、
ニューヨークから講師を招いたり、自分も通信システムの講習を担当したり、
天城研修センターでお客様の経営者セミナーの手伝いをしたり、
充実した経験のできる職場でした。
1981年4月東京の営業所のシステム次長として転出するまで教育部にお世話に
なりました。
今はIBMの研修は会社の本業でないということで別会社組織として実施
されているようです。

2009年5月9日土曜日

25. FBIは早起き

(a1.SE時代)

1966年(昭和41年)ころ、日本IBMの大阪営業所は営業、SE合わせても100人
以下の比較的小さな営業所で、営業課は3つくらい、システム課は1つでした。
その頃、営業所の中で釣りの同好会ができ、その名前は「FBI」でした。
Fishing Boys of IBMのつもりで、何故か男性社員ばかりでした。
FBIのメンバーは約10人で、アメリカの連邦捜査局(FBI)と同様(?)皆早起きでした。
なにしろ、海釣りに行く時などは、和歌山の湯浅当たりの現地集合6時まででしたから。
湯浅で釣り船を出してもらい、アジやサバ、イサギなどを釣りました。
ある時などは、豊漁でクーラー一杯のときもあり、他の人のクーラーのすきまに
入れてもらいました。
吉野の渓谷でマス釣りを楽しんだりもしました。
しかし、営業所の規模が大きくなった1971年ころには、FBIは自然解消したように
思います。
特に1971年は、日本の高度成長の真っ只中で、日本IBMの新入社員は2000名
を越え、当時システム課長になったばかりの私も、東京の教育部の支援に
狩り出され、マーケテイング・コースのロールプレイで客先部長の役を
担当したりしました。
おかげで営業所の体制も強化され、客先も徐々に増えました。